こんにちは。
おひさしぶりです。
今日はひなまつりの日。3月になり、春が近づいてきた気がします。
私が住んでいる土地は、冬の間は最低気温がマイナス10度になることもあり、本当に冬を越すという感じなのですが、
最近は寒さがゆるんできて、だんだん身体も楽になってきました。
キン、と澄んだ美しい冬の空気も好きなのですが、春が来るのは有り難いことです。
以前、私はいつ幸せになれるのでしょう、ときいてきた方がいました。
ということは、その方は今は幸せでないと感じていられるのでしょうが、
ひとは実はいつでも、今すぐにでも幸せにはなれるものなのです。
たとえば、
目が見えなかったり悪い方で、もっと見えるようになりたいと思っている方にとっては、目がみえるようになることが幸せなのかもしれません。
でも、もともと目が普通に見えている方は、果たしてそれが幸せだと思っているでしょうか。
子どもが出来なくて、苦しんでいる方もいます。そういう方には、子どもが出来るということはまさに、幸せが降ってきたかのように感じられるでしょう。
でも、望まずに子どもが出来てしまい、中絶してその後ながく苦しんだり、子育てに疲れて子どもを虐待してしまう方もいるのです。
極端な話ですが、子どもがもし交通事故に巻き込まれたとしたら、親は子どもの命が助かっただけで、生きていてくれるだけでよかったと泣くかもしれません。
事故の前には、子どもの成績が悪くて嘆いてたとしても。
幸せとは、
今あるものを、有り難いと感じられる心、今あるものの価値を十分に味わうことが出来れば、それが幸せなのです。
たとえば、人は誰しも加齢していきますが、そうすると、若い頃には普通に出来ていたことが出来なくなっていくことがあります。
自分でトイレにいく。
自分の手で食べる。
自分で食べたものを飲み込む。
自然に呼吸する。
え? そんなこと、当たり前でしょう、ということが出来なくなるかもしれません。
好きな仕事をして、
好きなときに外出し、
好きなときにテレビをみて、
好きなものを食べる。
好きなときにお風呂に入る。
これは、自分の身体が動いて、働けて、自分の生活を自立して送っていけてはじめて可能なことですが
それが当たり前でなくなることもあります。
なんでもそうですが、うしなってはじめて、その有り難さがわかった、、ということが起こることがあります。
でもそれでは遅いのです。
先日、施設に行くことがありましたが、同じ条件で生活していても、適応してそれなりに機嫌よく暮らしている人と
自分は不幸だと嘆いて職員や周りの人に迷惑をかける行動をとる人とでは、決定的に違うことがあると感じました。
それは、
不満を探して生きているか、それとも感謝できることを探して生きているか、です。
感謝している人は、さらに、自分が何か手伝うことがあればすすんで手伝うこともしている傾向があるようでした。
いつも不満な人は、際限なく気にいらないことを探して、自分の不幸をさらに確信していく傾向があるようでした。
人は、今自分がもっているものに感謝できなのであれば、幸せだと感じることは難しいでしょう。
何でも手に入ることが当たり前だと思っている人も、おそらく難しいでしょう。
目の前の一杯のお茶をきちんと味わうこと。
自分の身体が動くこと、息が問題なくできる心地よさを感じ
目に映る色どりに驚き、ふと聞こえた音に耳を澄ますこと。
なんでもいいのです。
じゅうぶんに、味わい、楽しみましょう。
感覚は感じるためにあります。
自分がまだ生きていて、与えられているものがたくさんあるのにそれに気付かず、
足りないものを数えて塞いだ気持ちで過ごすのはもったいないことです。
今与えられているものも、いつまでもそうだとは限りません。
失うことを恐れるのではなく、今を十分に感じて味わうことです。
今、この時間をどう感じて過ごしているか。
今、幸せに、心地よく過ごしているかどうか。
一生とは、今この時間 の連続です。
幸せは、ただ幸せと感じれば、幸せなのです。
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