こんにちは。
いつもありがとうございます。
今日は、存在の価値について。
よく、自分に価値がないとか、あるとか、言うことがありますが、それってどういうことなのでしょう。
一体それを決めるのは誰なのでしょう。
ところで、誰でも知っている童話に『白雪姫』があります。このお話は白雪姫はハッピーエンドになりますが、継母は不幸なままなんですね。
白雪姫の継母は、自分が一番美しくないと魔法の鏡に言われて腹を立て、姫を亡きものにしようと企てますが、
このとき、継母の心の中には何が起きていたのでしょう?
自分が一番でないと許せないという気持ち?
自分の価値が否定されたような気持ち?
そもそも、鏡がこの世の価値をすべて決める神だったのでしょうか?
一番でないと価値がない、という考え方があります。
それはそれで、自分を磨くにはいい動悸づけになるのかもしれませんが、幸せな心からは遠ざかるやり方かもしれません。
お話の中では鏡が神=絶対者ですが絶対者が親であったり、恋人であったりする場合もあります。
たとえば、兄弟間で、どちらが一番親に認められるとか認められないとか、恋人にとって一番愛されるとか、愛されないとか。
親というのは、確かに子どもが小さいうちは神みたいに絶対的な存在かもしれませんが、大人になって考えてみれば、
神でもなんでもないですよね。
あるいは、コンクールで1位になるとか、試合で1位になるとか、とにかく一番でないと価値がないと思う考え方があります。
もちろん、一番を目指して自分を成長させるのは、お互いを切磋琢磨するためにはいいことでしょう。
ただ、一番でない悔しさをバネにして自分を磨くために努力するのはいいのですが、そのうちにどんな手段を使ってもライバルの邪魔をしたり、暗殺しないと気がすまなくなる人もいます。
相手をつぶしたり殺してしまえば、一時的に気がすむかもしれませんが、また別のライバルは現れてくるでしょう。
そのたびに相手を暗殺しなくては。。と思う人の心に平安はあるでしょうか。いつ、自分の地位が危うくなるのかと
内心おびえて暮らすことでしょう。
白雪姫の継母は、鏡に白雪姫の方が美しいと言われて逆上している時点で、自分には価値がないと思っていることを
暴露してしてしまっているようなものです。
きっと継母には継母にしかない魅力や能力があったはずですし、白雪姫が敵わないような部分もあったはずなのです。
白雪姫が存在しようとしまいと、継母の価値には関係ないことなのです。
それを自分で認めないで、自分以外の誰かの言うことを絶対視して心を乱してしまうことの弊害の方が大きいのではないでしょうか。
対する、白雪姫は、自分が美しいとかそうでないとかは全く気にせず、ただ素直に楽しく生きているだけです。
自分は自分。他者との比較でなく、各々の存在自体に価値がある、と思っている人は、過度に他者からの評価を気に病むことは少ないでしょう。
自分を気に入ってくれる人も、そうでない人もいるかもしれない。でもそれさえ、別に大きな問題じゃない。
大切なのは、自分が楽しく幸せに暮らすことです。
競争したり、努力したかったらすればいいのです。勝ち負けのゲームをしたかったらすればいい。
でも憎んだり、殺したりする必要はないでしょう。相手の不幸を願うこともありません。
存在していることを楽しめないというのは、生きていてもったいないことだと、私は思います。
存在を許されている、という時点で、宇宙あるいは神から私たちは十分愛されている、と思うからです。
あるいは、何が出来る出来ないにかかわらず、自分は価値があると知っている、あるいは自分のことを愛している。
それだけで十分であり、それ以外のことはおまけくらいに思っていればいいのではないでしょうか。
自分に、誰かに、価値があるとかないとか、決めているのは、自分の心でしかないのです。
自分の存在自体の価値をどうか認めて、楽しく生きていきましょう。
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