pagetop

プロの占い師が集う[占いブログ]

プロフィール

プロフィール
名前 ヨハネ
性別
自己紹介 易者であり、自称無教会派のキリスト者。
趣味 音楽鑑賞
スポーツ
好きな
食べ物
コーヒー。酒は飲まない。

サイトマップ


Blog内検索


実りの秋

2008-09-29

占うことの難しさを日々実感しているところですが、
この難しさと全面対決することで新たな世界が開かれてきました。
ここでいう難しさは術に対してではありません。
それ以上に難しいと感じているもの、
それは自分の占いスタイルの立ち位置です。

自分の商品価値を自覚するには、
ライバル会社のお客様になるのが最も近道です。

今日、おかげさまで自分の仕事を非常に客観化できる出来事に出合いました。
憤懣やるかたない思いと引き換えに、めざすべく高みをはっきりと見出したのです。
この自覚化を持って、やるかたない思いを作動させた恩讐を愛そうと思います。
比較検討は大切なことです。
これには感謝以外の何物でもありませんでした。


良しあしや価値を問題にする際、
その根底に欲望がうずいています。

この欲望そのものは善でも悪でもない。
欲自体においては「正邪」は判然とせず混沌となっている。
欲望を方向づけるのは、
その人の価値観です。
価値観とは何か、

噛み砕くと
それはどういった理想を思い描き、目指しているかということです。

欲望は動因部であり、TPOを間違えることで悪に傾いてしまう。
しかし神にまでたどり着こうとする人間の崇高な精神性をもってすれば、
実践的には修正する謙虚さがあれば、
必ずや道が開かれる。




男にはロマンと理想に裏付けられた理念がなくてはなりません。
いみじくも今日わたくしはその理念は絶対に譲らない覚悟を固めました。

遅かったかもしれませんが、
心から感謝したいと思います。

実りの秋。

走り切った来た中に、
何物にも代えがたい恩寵を頂戴したことに
感謝申しあげます。

それはほかでもなく、
わたくしのところに足を運んで尋ねてくださった
ゲストの皆様の足跡によること
ご縁をいただいた皆様によること

まごころから感謝申しあげます。


多くのやり残しが依然残っています。
が、しかし、着々と
揺るぎなき不動心で突き進み
占いの術が普遍的な精神的支柱となるレベルまで到達できるよう、
凌駕していきます。


乞うご期待ください。

Posted by devil666 01:50:09Comments(0)TrackBack(0)

良心

2008-09-27

 事故米転用が大きく問題となって、職業倫理とはどういうものか根本的なところから問い直されようとしている。もちろん商いは利益がなくては立ち行かない。しかし人は弱いもので自分がたいへんになると、そのたいへんさをわかってくれない、だれも助けてくれないという疎外感が先行し始め、あげくには利潤ばかりに目がいくようになり利己主義が独り歩きし、いつしか志や誇りを見失って不正行為がはびこることになる。

 こうした人間の弱さとどう立ち向かうのかは、結局その人の生き様を問題にするということにつながる。生業を営むということは金目当てだけではない。つまり利潤を越えた視点、良心やプライドがあるのか、倫理観に裏付けられた自分なりの価値観や人生観があるかないかだ。

 最近とみに宗教だけではなく倫理観をなるべくもちこまない風潮が謳歌している。共産主義思想が崩壊し市場原理に基づく資本主義が勝ち残ったこともそうした考えを加速化した。こうして経済至上主義の拝金主義が世界をけん引している。

 これと同時に、「勝ち組」がルールを作るという競争至上主義が倫理を無目的化、空洞化させる。この空洞化は精神の空洞化である。この精神の空洞化が、新たなスピリチュアリズムの温床となり、ニューエイジブームとなって、詐欺まがいの取引が横行している現実がある。「魔が差した」ではすまされない根深い問題が潜んでいるのである。

 経営が苦しい時、耐え忍んでそれを乗り越え突き抜けるには、「良い仕事をしたい・良い仕事をしている」という精神とプライドしかない。この時、試されているのはその人の人格(品格)をつくっている良心である。良心こそ、永遠・普遍・不変・絶対である。市場原理に左右されない、いつも変わらない姿勢で仕事に向かう。それこそが良心に支えられた本物の生業といえるものである。


〜正業のホコリでチリを寄せ付けず…




 


 

Posted by devil666 00:58:25Comments(0)TrackBack(0)

言葉を越える

2008-09-22

無為自然=本性自然を説くのは老荘思想のほか代表的なのは禅宗である。

 このふたつには、不立文字・以心伝心という言語を越えた次元に“真理(=絶対性)”を置くという共通点がある。これは「絶対の真理」と「相対の言葉」という鋭い対立を自覚化したからに他ならない。
 「相対の言葉」というとちょっと抵抗があるが、これは「沈黙」と「言葉」という相対関係を想定している概念である。これは易でいうと「陰(=沈黙)」と「陽(=言葉)」である。敷衍し、「光(=陽)と影(=陰)」となる。比べるものがなければ、認識を成立しえない。認識を成立するための言葉とありのままの真理とは、隔たりがあるのだ。簡単に言うなら、『砂糖は甘い』ということを一度も砂糖を味わったことのない人に言葉巧みに説明しても、わからせることは不可能である。また、「甘い・辛い・塩辛い・苦い・酸っぱい」という差別化と全体系(=知的体系)があって、その本質を認識する。これはあたかも一対一で対応しているかのように信じられている事実と言葉の間には隔たりがあることを意味している。言葉は万能ではない。言葉そのものが実は「バーチャル」な世界の生き物である。対して絶対的真理性(=易では『太極』)とは、光と影を共存させる超越した基準点を持ち、対立したものを止揚させる力を持つ。

 このように言葉には限界がある。厳しい目で見ると、ありのままの現実をあらわすのに「不適」の烙印を押さなければならぬ。論理実証主義が破綻したのも当然である。一方、これとは別にウィトゲンシュタインは限りなく言葉の限界に接近しようと挑戦した。その足跡が「論理哲学論考」であった。こうして彼は生涯をかけて“語りえぬもの”を考え抜いたのである。

 東洋ではうまいぐあいに「諦観」という概念を持っていたため、それ以上思考をめぐらさず、たとえば禅では「只管打座:ただひたすら座る(=座禅すること)」として仏説(=お経)を用いながらも言葉にとらわれない方法論を確立し、あくまで言葉は実在のありかを暗示する記号やシンボルと位置付けようと考えた。荘子にも外物編に、「筌(うえ)は魚を、蹄(わな)は兎をとらえるための道具である。魚や兎をとらえてしまえば、道具の用はなくなる。つまり言葉はあくまで手段であり道具であって、真理そのものではない。真理をとらえてしまえば、言葉は忘れるがよい。」この筌蹄のたとえは禅者に愛用された。まさに“禅問答”である。つまり、目指すは自分自身が真理そのものになることなのだ。まず心の中に着眼し、「仏性の自覚(=覚知)」つまり自己の内にある本性の自然(=善)を発見し不自然(=悪)を脱皮する。これが本覚思想(囚われなき心)だ。そのことを「身体」のレヴェルで実体験して(=実体化:心身一体)悟り=無為自然なのである。

・・・仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
      〜『正法眼蔵(:現成公案)』


血のにじむような修行の末に、自分を忘れたとき、向こうから悟りはやってくる。

Posted by devil666 01:33:22Comments(0)TrackBack(0)

雨の東京

2008-09-19

台風の影響か東京は雨模様でした。
今日は足元悪い中、お越しくださいました皆様、
心から感謝申しあげます。

Posted by devil666 23:13:06Comments(0)TrackBack(0)

静かな一日

2008-09-19

「問題に決着をつけることではない。・・・途上にあることを真に受けとめることだ。」

〜ハイデガー

存在の特徴は、すべて根本的な疑いの光にさらされている、とハイデガーは言う。つまり、“これでよいのだろうか・・・?”と今の「存在」そのものを疑問視する問いかけを発する。この問いは、自分が本来すべきことへの覚悟や、本来あるべき姿への洞察を促します。人であればこそ、善悪の価値判断が作用する能力があることを無視することはできません。この良し悪しは、究極的に「ある方がいいか、ない方がいいか」を決定することでもあります。最善をめざし、より良い可能性を問い直すわけです。

世間並のことで済ませようとする自分、現状に甘んじてしまう自分はだれにでもある「自分」を構成する要素です。しかしハイデガーはそこに<埋没>してしまうことは『自己逃避』である、と断言しました。
かわりに、ハイデガーは(これでよいのだろうか)という根本的な問い直しをすることが自身の自由性を保障するものであり、途上にあることを真に受けとめることで可能性の扉を開くのだ、そのことが、自由な存在として自らが優位に立つことになる・・・と考えます。

自分はどうして自分なの?

こうした自己喪失や自己分裂状態はだれにでもある、健全な状態であり、この時自身が最大限自由を行使しているのである。むしろ世間に合わせて生きる方が自己を見失っていると警告します。

鏡に映る自分を正面から見ることは自分でありうることの限界を知ることであり、
その姿に問いかけることが本質に語りかけること、自分でありうることへの最大の可能性に向かっているのだということになる。

自分を失い、自分とうまくやっていけない・・・これは人間の自由な本質とかかわりがありそうです。


人は自分でありながら、自分を超えていく存在である、
つまり本質を掘り下げることが成長するということなのかもしれません。

Posted by devil666 01:26:09Comments(0)TrackBack(0)

占いについて

2008-09-16

毎日占いながら、「結局占いって何なのか?」って疑問に思うのです。
それはもう、真剣深刻に考えちゃいます。
未来とはとらえどころがない世界であるということが前提にあるのになぜ未来を占うのか。どこまでを占いに期待していいものか。

たとえば未来を扱う上での実証性という点をどのように保証するかという難問です。
いうまでもなく占いはこの「実証性」という点で、科学に完全に負けてしまっているのです。

Posted by devil666 01:25:06Comments(0)TrackBack(0)

お願い

2008-09-14

今日はせっかくお越しくださったのに
あふれてしまい占うことができずに
お帰りになられたお客様
申し訳ございませんでした。

深くお詫びいたします。

どうしても重なってしまい、
多くのお客様をお待たせして
ご迷惑をおかけしております。

できる限り皆様とお話ししたいので、
よろしければご遠慮なく事前にメールや電話などで
ご連絡いただけると多少の融通がきき大変有り難く存じます。


こちらからの一方的なお願いで恐縮ではございますが、
なにとぞよろしくお願いいたします。

Posted by devil666 23:43:55Comments(0)TrackBack(0)

夏のある日

2008-09-14

50652.jpg

夏の思い出

Posted by devil666 01:18:31Comments(0)TrackBack(0)

病院からの風景

2008-09-11

50544.jpg

「いつもこの時期になると、どういうわけか、何か新たなものが胎動する…。」
そう呟いて、男は今年一年を振り返った。
そういえば昨年は大きな波が押し寄せて、
今までの会社勤めに見切りをつけ、
新たな事業に取り組んだ結果、
落ち着いて横になることがないほど
自分を追い詰めながら昼夜なく働いた。

そんな矢先に、大量の血を吐いて緊急入院となった。
胃潰瘍である。

一週間の絶食治療という考えもしなかった状態に突如置かれてしまったのである。
窓から外を覗きながら、世間とは隔絶された閉じられた世界に自分を置くことを許された。

ふがいないことであるが抵抗することのできないどうにもならない力があることを思い知らされたわけである。


「自分を取り戻そう。せっかくだから…。」

こうして朝の新聞に隅から隅まで目を通し、聖書に読みふけり、最後まで自分が信じるものは何かを問い直していった時間が過ぎていったのである。


「どこまでもフィクションの世界であったものが、まさか現実の自分の人生に直接訪れるとは思いもよらなかった。」


そう思いながら、自分の運命とは何か、運命とにらみっこしたのである。


男は、その時のことを考えて、懐かしく思う。
自分がどこに向かって生きようとしているのか、
過去の青春時代の失敗を受け入れながら、
今の自分があるということをそのまま受け入れようと
素直な気持ちになれた入院生活であった。


何もなくていい。


“ヨブは立ち上がり、上衣を裂き、髪をそり落し、地に伏して拝し、そして言った、
『わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな。』
…ヨブ記第一章20節”



男は携帯に残っているあの時の風景写真が目に飛び込んできた。
そうしてふと、ヨブに自分を重ね合わせようとして勇気を得た原点を思い起こしたのである。

Posted by devil666 22:41:13Comments(0)TrackBack(0)

運命が“人”を作る

2008-09-11

人の運命とはいかに?
さまざまな憶測が飛び交う。

おおよそ「性格が運命を作る」・・・と考えているようである。
しかし、鑑定をしてみると、
人の性格より運命の方がはるかによく当たるというのが私の実感である。
性格とは、先天的な要素と後天的な要素が合わさってできる。
しかし、運命というのは、宇宙から生み出されたものであり、
その構造は演繹的に分析することができるのである。

当たり前であるが、人は複雑である。
人は他人の性格について簡単に言及するけれども、立場や見方が異なれば、いかようにもとらえることができてしまうので、正解がない。
事実性格テストで自分自身の性格分析をするときにさえ、気分によってその結果が変わってしまう実にあいまいなものである。

人は状況によって、自分を我慢して出さなかったり、演技をしたりしてその場を取り繕うこともある。その上手下手はあるにしろ、ある種の多重人格性を持っているということになる。

そうした変化の軸になるもの、それが運命だ。
どういう運命的事情に取り囲まれているのかをつかんだ方が、事の成り行きや人の実際を説明しやすい。


よく、「あのひとは・・・どう思っていますか?」
という質問に対して占うことがあるが、

「思いの世界」とは一様でないため、実に難しく簡単ではないのだ。

コンプレックスを思い出してほしい。
普通人に対して、相反する矛盾する思いを同時に持つのがほとんどである。

また人の心が様々なレベルの階層構造でできており、その自分自身の心を十分自覚化できていないのが普通である。

人に対する感情とは、簡単に言語化できるものではない方が大半なのだ。



さて運命家は、
「運命」の構造を先取りして、置かれた社会状況を掛け合わせてどういった体験世界を通過し何が習慣化されているかを踏まえて、性格をつかんでいくのである。

Posted by devil666 00:45:29Comments(0)TrackBack(0)

主人意識

2008-09-09

〜占いを有効利用するために

何の因果もなく、「気になる」が出発点で、
偶然に出したものから未来を予言する易。

それは未来と現在をつなぐ懸け橋となる。

たまたま偶然に出たはずのもの。

問いかけると、反応し今後の成り行きの道筋を暗示するというのは不思議だ。

ここから何を学ぶのか。
周易の場合、成り行きという現象面と同時に人の生き方である。
他の占いと明らかに異なる周易の一面は、
「君子」つまり社長になるための道が示されている。
民主主義であればひとりひとりが自分の人生の社長であることを自覚しなければならない。
周易を扱うと、主人であることの責任や主体性の有無が厳しく問われる。


周易は時勢に流されて生きるのではなく、
わが人生の本物の主人となり、自らの道を切り開くために
自らの命を立てることを目指す大人の占いである。

Posted by devil666 01:07:32Comments(0)TrackBack(0)

ありがとう

2008-09-07

k先生、今日はお運びくださりありがとうございました。
残念ながらお話しできませんでしたが、
元気なお顔を拝見できました。
おいしいお菓子の差し入れをありがとうございました。
ちょっと疲れ気味でしたので、おいしく頂きました。
感謝申しあげます。

Posted by devil666 22:58:03Comments(0)TrackBack(0)

恋愛の基準

2008-09-07

こころが弾むような、
言葉ではあらわせないほど、一緒にいて楽しい人を
人は好きになります。

互いにそうした関係であれば、
相思相愛でとてもハッピーな気持ちになります。

相手のすべてを許すことができます。

そんな運命的な出会いがあって、

互いに相手のことを考えて、
相手のために努力するけな気さが双方にあれば、
より深い絆が結ばれていきます。


見つめあえば、
いつも笑顔の絶えない関係。


自然と思いやる情が絶え間なく
自分を忘れるほど湧き出る感情。


自分らしい生き方をしていると
その自分らしい生き方をそのまま生きることが
楽しくなり
背伸びせず、
素直なままで自然に愛する人が現れてきたりします。


その人があなたの永遠のパートナーかもしれません。

Posted by devil666 02:30:22Comments(0)TrackBack(0)

↑PageTop

  September/2008  

S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

QRコード

QRCode