人生の転機ということがあります。
本来殊更そのときを意識するではなく、要は普段の積み重ねが大切ということになろうかと思いますが、節々にいかなる選択をするかで将来の行くべき道が変わってくるというのも現実の実際であると感じます。
こうしたときに、易は非常に役立ちますが、実はその行く道が複数あると、その一つ一つの道の吉凶は易ではわからない場合がほとんどです。それはそれぞれの選択の延長にどういった未来があるのかを示しているに過ぎないからです。このとき、もし、どうしても吉凶が出る形で判断を求められる場合は、一歩引いて、では、今、問占者がどのような運勢にあるのかや、漠然としてもいいので、求めているものをどのようにつかんでいくかと基本に立ち返りその生き方の本質を探るように問い直して易をとります。その方がクリアーに納得できる答えが出てきます。
つまり、周易では、自分の生き方を問題にすることができます。そこが他の占い、卜筮と大きく異なる点なのでしょう。
人は自分のことについては、欲があるためどうしても我が入ってしまい、客観性にかけてしまいやすく、いざ迷っているから占うのによけい迷ってしまうということがままあります。つまりこうした岐路には、どうしても浮き足立ってしまったり、慎重になり過ぎてしまい決断を先送りしてタイミングを失うということが起こったりします。
占わなくとも、人生の転機には、まず、その道の行く先にどういった未来が待っているのかをしっかりシュミレーションして、その得たい結果のみならず、その得た結果を通してその先の将来にどんな自分を想定しているのか、当たり前のことかもしれませんが、もうひとつ先のことを考え、読み込んで判断するといいでしょう。ただ、どの道であってもそれはそれでOK,あまりこだわらないで成り行きに任せる、ゆだねる気持ちがあるかどうかが大切となります。自分の人生、なるようにしかならないと諦観するのです。
転機における客観的視座を受け入れられる自分自身をつくるということの方が実は意外に難しいのです。つまり、こうしたときは、他人の意見が耳に入りにくくなる。何かを得たい!と強烈に思っているが故のこだわりですね。こうした時は潜在的に気がついていない問題が付随していることがほとんどです。つまり、そのこだわり意識が隠蔽を生み、隠されてしまった潜在性が時間と共に作動し始めて、想定外のことが起こるのです。おおよそ、想定外というのは、自己の欲に駆られて自分を掘り下げられず、客観性を見失うことが原因にあります。
岐路に立つ時とは、長期的なビジョンに経って、自分の人生、何を求めようとしているのかを根本的に考えるための絶妙なタイミングの時なんだと腹をくくる必要があります。