「問題に決着をつけることではない。・・・途上にあることを真に受けとめることだ。」
〜ハイデガー
存在の特徴は、すべて根本的な疑いの光にさらされている、とハイデガーは言う。つまり、“これでよいのだろうか・・・?”と今の「存在」そのものを疑問視する問いかけを発する。この問いは、自分が本来すべきことへの覚悟や、本来あるべき姿への洞察を促します。人であればこそ、善悪の価値判断が作用する能力があることを無視することはできません。この良し悪しは、究極的に「ある方がいいか、ない方がいいか」を決定することでもあります。最善をめざし、より良い可能性を問い直すわけです。
世間並のことで済ませようとする自分、現状に甘んじてしまう自分はだれにでもある「自分」を構成する要素です。しかしハイデガーはそこに<埋没>してしまうことは『自己逃避』である、と断言しました。
かわりに、ハイデガーは(これでよいのだろうか)という根本的な問い直しをすることが自身の自由性を保障するものであり、途上にあることを真に受けとめることで可能性の扉を開くのだ、そのことが、自由な存在として自らが優位に立つことになる・・・と考えます。
自分はどうして自分なの?
こうした自己喪失や自己分裂状態はだれにでもある、健全な状態であり、この時自身が最大限自由を行使しているのである。むしろ世間に合わせて生きる方が自己を見失っていると警告します。
鏡に映る自分を正面から見ることは自分でありうることの限界を知ることであり、
その姿に問いかけることが本質に語りかけること、自分でありうることへの最大の可能性に向かっているのだということになる。
自分を失い、自分とうまくやっていけない・・・これは人間の自由な本質とかかわりがありそうです。
人は自分でありながら、自分を超えていく存在である、
つまり本質を掘り下げることが成長するということなのかもしれません。