無為自然=本性自然を説くのは老荘思想のほか代表的なのは禅宗である。
このふたつには、不立文字・以心伝心という言語を越えた次元に“真理(=絶対性)”を置くという共通点がある。これは「絶対の真理」と「相対の言葉」という鋭い対立を自覚化したからに他ならない。
「相対の言葉」というとちょっと抵抗があるが、これは「沈黙」と「言葉」という相対関係を想定している概念である。これは易でいうと「陰(=沈黙)」と「陽(=言葉)」である。敷衍し、「光(=陽)と影(=陰)」となる。比べるものがなければ、認識を成立しえない。認識を成立するための言葉とありのままの真理とは、隔たりがあるのだ。簡単に言うなら、『砂糖は甘い』ということを一度も砂糖を味わったことのない人に言葉巧みに説明しても、わからせることは不可能である。また、「甘い・辛い・塩辛い・苦い・酸っぱい」という差別化と全体系(=知的体系)があって、その本質を認識する。これはあたかも一対一で対応しているかのように信じられている事実と言葉の間には隔たりがあることを意味している。言葉は万能ではない。言葉そのものが実は「バーチャル」な世界の生き物である。対して絶対的真理性(=易では『太極』)とは、光と影を共存させる超越した基準点を持ち、対立したものを止揚させる力を持つ。
このように言葉には限界がある。厳しい目で見ると、ありのままの現実をあらわすのに「不適」の烙印を押さなければならぬ。論理実証主義が破綻したのも当然である。一方、これとは別にウィトゲンシュタインは限りなく言葉の限界に接近しようと挑戦した。その足跡が「論理哲学論考」であった。こうして彼は生涯をかけて“語りえぬもの”を考え抜いたのである。
東洋ではうまいぐあいに「諦観」という概念を持っていたため、それ以上思考をめぐらさず、たとえば禅では「只管打座:ただひたすら座る(=座禅すること)」として仏説(=お経)を用いながらも言葉にとらわれない方法論を確立し、あくまで言葉は実在のありかを暗示する記号やシンボルと位置付けようと考えた。荘子にも外物編に、「筌(うえ)は魚を、蹄(わな)は兎をとらえるための道具である。魚や兎をとらえてしまえば、道具の用はなくなる。つまり言葉はあくまで手段であり道具であって、真理そのものではない。真理をとらえてしまえば、言葉は忘れるがよい。」この筌蹄のたとえは禅者に愛用された。まさに“禅問答”である。つまり、目指すは自分自身が真理そのものになることなのだ。まず心の中に着眼し、「仏性の自覚(=覚知)」つまり自己の内にある本性の自然(=善)を発見し不自然(=悪)を脱皮する。これが本覚思想(囚われなき心)だ。そのことを「身体」のレヴェルで実体験して(=実体化:心身一体)悟り=無為自然なのである。
・・・仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
〜『正法眼蔵(:現成公案)』
血のにじむような修行の末に、自分を忘れたとき、向こうから悟りはやってくる。