事故米転用が大きく問題となって、職業倫理とはどういうものか根本的なところから問い直されようとしている。もちろん商いは利益がなくては立ち行かない。しかし人は弱いもので自分がたいへんになると、そのたいへんさをわかってくれない、だれも助けてくれないという疎外感が先行し始め、あげくには利潤ばかりに目がいくようになり利己主義が独り歩きし、いつしか志や誇りを見失って不正行為がはびこることになる。
こうした人間の弱さとどう立ち向かうのかは、結局その人の生き様を問題にするということにつながる。生業を営むということは金目当てだけではない。つまり利潤を越えた視点、良心やプライドがあるのか、倫理観に裏付けられた自分なりの価値観や人生観があるかないかだ。
最近とみに宗教だけではなく倫理観をなるべくもちこまない風潮が謳歌している。共産主義思想が崩壊し市場原理に基づく資本主義が勝ち残ったこともそうした考えを加速化した。こうして経済至上主義の拝金主義が世界をけん引している。
これと同時に、「勝ち組」がルールを作るという競争至上主義が倫理を無目的化、空洞化させる。この空洞化は精神の空洞化である。この精神の空洞化が、新たなスピリチュアリズムの温床となり、ニューエイジブームとなって、詐欺まがいの取引が横行している現実がある。「魔が差した」ではすまされない根深い問題が潜んでいるのである。
経営が苦しい時、耐え忍んでそれを乗り越え突き抜けるには、「良い仕事をしたい・良い仕事をしている」という精神とプライドしかない。この時、試されているのはその人の人格(品格)をつくっている良心である。良心こそ、永遠・普遍・不変・絶対である。市場原理に左右されない、いつも変わらない姿勢で仕事に向かう。それこそが良心に支えられた本物の生業といえるものである。
〜正業のホコリでチリを寄せ付けず…