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プロの占い師が集う[占いブログ]
占い師プロフィール

プロフィール

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名前 ヨハネ
性別
自己紹介 易者であり、自称無教会派のキリスト者。
趣味 音楽鑑賞
スポーツ
好きな
食べ物
コーヒー。酒は飲まない。

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易の厳しさ

2008-11-21

易は未来を作るためにあります。
未来に向かって筮竹を捌きます。

人生を占う場合、かなり厳しい内容になることもあります。
尋ねる内容が高い目標である場合と、
問占者がその土台を築けていない場合、
また、テーマそのものがずれている場合などです。

この時、易はその問題を根本から定義しようとします。
つまり問い直されることで厳しく姿勢が正されます。
自己批判が生まれます。

しかしそれは同時に希望です。
可能性の根拠をきちんと示す形で答えてくれるからです。


易のスピリチュアリズムとは、
そうした人生をテーマに置いたとき
俄然光り輝くものとなっていくのです。

Posted by devil666 01:11:21Comments(0)TrackBack(0) │その他

占いの意義

2008-11-17

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未来を創るものはなあに?

ぼく
生まれてきちゃた
自分の意思ではないよね

自分を離れた
ずっと向こう側にある
この次元を超えたところから
いのちが運ばれてきたんだよね

生まれてくることの不思議

そして
ここに生きるという
自分に与えられた人生のレールとは
どういうものなのだろう?


託された大いなる願い―使命がある
せっかくだからその願いを叶えてさしあげよう


その願いとひとつになれば

きっと希望が生まれるだろう


信じてみよう



真の愛を求めて

Posted by devil666 00:35:54Comments(0)TrackBack(0) │その他

開運について

2008-11-01

開運についてお話しいたします。
運命という波を受けて、人は個性化の道を歩みます。
この時、普遍性と個別性の相反する両面を同時に兼ね備えなければ、「個性化」になりません。
つまり、個性とは世間一般に認められ必要がある。観念の世界で了解できる共有領域がなくてはならない訳です。そこから逸脱した個性とはそれはもう個性とは呼べず、「特異な・異常な」常識破りの奇人変人としてしか扱われない。このことを目的性という観点から考えると、全体に役立ち、全体を生かし、維持する素材となりうること、かつ個体としての生存と永遠性を目的を維持することが網羅される必要があり、この二つの目的が保障されて連鎖し、連帯をつくっているということになります。

個性とは、「本来備わっている人間の偏り」です。
偏っている部分が、他人との間の大きな違いになり、差別化を生みます。
実はその偏っている部分に、人はこだわりと興味を持つようになるのです。

同時に、その偏りは歪んだ偏光メガネです。
つまり、その偏った部分に興味を持ち、こだわり始めて、さらなる偏りを生んでいく。

こうして特殊性が普遍性を逸脱してしまうと、宇宙の法則の保護力から抜け落ち、「病気」と同じような症状を起こします。

開運はここから始まります。

つまり自分の持っている得意とするものをあたかも捨てるような形で放棄し、自分にないものを探し出して歪んだ偏りを元に戻す努力をすること、こうして普遍性を確保するよう意識して働きかけなければなりません。

これは、「自分の得意とする好きなものを捨て、自分にないものをつかむ努力をする」ということです。相当な自己コントロールが必要です。そのコントロールが完成された状態は「超越した自己」が作られた状態です。これを「真の自己」といいます。

運命にはこうした自分のやりたいことができなかったり、嫌なことをさせられたりするという忍耐の期間が必ずあります。この時こそ、自分を生み変える試練の時であり、真の自己を形成する大切な瞬間です。こうした我慢の期間を無事に全うしないと、開運期にいいものを掴めません。せっかくの時に実らないのです。この開運期に来てからやらなかった準備をしようとしても、後の祭りです。準備したものにふさわしい内容で満足するしかありません。

つまり、試練の時が準備の時です。この時に忍耐の基準が立たなければ、いくらいい時にいいものをつかもうとしても、つかむことはできません。これが霊的法則です。

自分の好きなものが偏りを生みます。

嫌いなものが、自分を育てます。

怨讐を愛しましょう。


その条件が満ちたとき、開運期に大きな幸運をもたらします。

Posted by devil666 23:57:26Comments(0)TrackBack(0) │その他

「ブルータス、お前もか…」〜成熟しきった金融資本主義の末路

2008-10-26

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金融の光と影。
生産性を持たない金利という自己肥大化のシステムは本質的に幻想を追いかける。よくよく掘り下げると実は根本的に「お金」そのものが幻想で成り立っているはずなのだが、そのことに気づかず、お金が最も力のあるもののように錯覚し、誤った世界観、誤解が先走り、利益のみを求めて金融市場に参入する。「金(キン)本位」だとか、証券だとか、不動産だとか、先物取引だとか、そのすべてはあたかも価値に目がくらむ人間の欲望から生まれる。ああしたい、こうしたいという幻想・・・当然ながらそれは抑えがたい人間の欲望から生まれる。
幻想の価値を金融市場では信用という言葉に置き換えて、その幻想と陶酔感が独り歩きできるように公然とシステム化されている。
夢は実現する場合と、破れる場合とがある。
信頼が崩れ、裏切られる場合がある。

金融市場とは、その欲望と幻想の舞台なのだ。

自由競争とは、砕けた表現をすると、早い者勝ちということになるのだろう。
「やばい」という危機が、今、現金確保に躍起になっているのだ。

リスクを負わせる流動性のつよいお金である証券より、目の前の現金の方の信用が強くなり、株価は暴落している。富をもたらすことのできない経済システムであることに見切りをつけているわけである。
しかし今回はそんな単純なロジックではなさそうだ。ヘッジファンドと呼ばれる特殊的な金利を追い求める金融集団のエゴが、サブプライムという仕組みで自爆した。いってみれば金融取引のプロ集団の最高峰が音をたてて崩れた。このことで金融資本そのものの在り方が問われているものの、結局税金投入という連帯罪を国民は負わされている。しかし「わかっちゃいるけど、やめられない・・・」のが、欲望的人間なので、今回お灸を据えられたからと言って、どこまで自浄作用が発動するのか、そのあたりはまだ不透明である。

そもそも実質経済が成長していないのに利益を生み出す仕掛けを作った幻想が引き金になっている。その実態の伴わない幻想に投資した以上、失っても本来当たり前ではないだろうか。

そんなことをいうと、貧乏人のぼやきにしかならないかもしれない。



しかし世間では信用が崩れ、価値が下がまくっているので、もしかて・・・うちも倒産?という疑念が世を憚っている。
「ブルータス、お前もか・・・」
今、世の中は「疑心暗鬼」という亡霊が蔓延っている。

Posted by devil666 03:20:29Comments(0)TrackBack(0) │その他

無冠の帝王〜ぼくはあなたを忘れない

2008-10-24

プロ野球は今、クライマックスシリーズで白熱した戦いが繰り広げられている。
 

一方で、今年引退を決断した偉大な野球人たちがいる。
王監督・野茂投手、そして清原和博選手である。

今日クローズアップしたいのは、清原選手である。

番長の名で親しまれた清原選手は、
長渕の「とんぼ」の曲で堂々とバッターボックスに立った。




しかしその実、いい時も悪い時もよく涙を流す男でもあった。

 
荒々しいイメージの「キヨサン」。
だが、大胆さのみならず繊細な神経の持ち主である。
きっとプロ入団当初から人知れぬ数多くの挫折を経験したのだろう。

 

そんなキヨサンは球界No.1のスピードと投球技術を持つ名投手から
野球ファンを熱狂させるたくさんの思い出のHRを放っている。
キヨサンが打つHRはなぜか感動を呼ぶのだ。



それもそのはず、
キヨサンは『三振と死球』の数が球界歴史上、最も多いバッターなのである。

「三振と死球が最多」・・・この言葉の意味することはなんであろうか。

 
番長の異名を持つキヨサンは、多くのピッチャーから標的にされてきた。
プロの投手の思い切って投げる硬球を続けざまに内角に攻め込まれてきたのである。
それは投手と真っ向から対決した足跡以外何物でもない。
まさに逃げることなく全身で全力勝負をしてきた証しなのだ。

死球と三振が球界史上最高。
清原和博選手の栄光はここにある。

Posted by devil666 02:19:41Comments(0)TrackBack(0) │その他

陰陽忌

2008-10-20

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さる10月13日(祝)、師匠および易友有志と故「高島呑象」先師法要のため泉岳寺に足を運びました。法事になるとここ数年雨模様でしたが、折しも今年はスカッと晴れたすがすがしい陽気に恵まれました。

高島師は洋の東西を問わず幅広い見識から当時の文化人や政治家・財界人に影響を与え、後世に易のみならず数多くの偉大な文化遺産をもたらしました。

妻と眠る泉岳寺は、都会の中の落ち着いた敷地です。座禅を組んで、自分を見直すに最適の場所でした。

毎年恒例ということもあり、和尚さんはとても親切に、故人に向かって礼を尽くしてくださいます。

Posted by devil666 02:38:23Comments(0)TrackBack(0) │その他

実りの秋

2008-09-29

占うことの難しさを日々実感しているところですが、
この難しさと全面対決することで新たな世界が開かれてきました。
ここでいう難しさは術に対してではありません。
それ以上に難しいと感じているもの、
それは自分の占いスタイルの立ち位置です。

自分の商品価値を自覚するには、
ライバル会社のお客様になるのが最も近道です。

今日、おかげさまで自分の仕事を非常に客観化できる出来事に出合いました。
憤懣やるかたない思いと引き換えに、めざすべく高みをはっきりと見出したのです。
この自覚化を持って、やるかたない思いを作動させた恩讐を愛そうと思います。
比較検討は大切なことです。
これには感謝以外の何物でもありませんでした。


良しあしや価値を問題にする際、
その根底に欲望がうずいています。

この欲望そのものは善でも悪でもない。
欲自体においては「正邪」は判然とせず混沌となっている。
欲望を方向づけるのは、
その人の価値観です。
価値観とは何か、

噛み砕くと
それはどういった理想を思い描き、目指しているかということです。

欲望は動因部であり、TPOを間違えることで悪に傾いてしまう。
しかし神にまでたどり着こうとする人間の崇高な精神性をもってすれば、
実践的には修正する謙虚さがあれば、
必ずや道が開かれる。




男にはロマンと理想に裏付けられた理念がなくてはなりません。
いみじくも今日わたくしはその理念は絶対に譲らない覚悟を固めました。

遅かったかもしれませんが、
心から感謝したいと思います。

実りの秋。

走り切った来た中に、
何物にも代えがたい恩寵を頂戴したことに
感謝申しあげます。

それはほかでもなく、
わたくしのところに足を運んで尋ねてくださった
ゲストの皆様の足跡によること
ご縁をいただいた皆様によること

まごころから感謝申しあげます。


多くのやり残しが依然残っています。
が、しかし、着々と
揺るぎなき不動心で突き進み
占いの術が普遍的な精神的支柱となるレベルまで到達できるよう、
凌駕していきます。


乞うご期待ください。

Posted by devil666 01:50:09Comments(0)TrackBack(0) │その他

良心

2008-09-27

 事故米転用が大きく問題となって、職業倫理とはどういうものか根本的なところから問い直されようとしている。もちろん商いは利益がなくては立ち行かない。しかし人は弱いもので自分がたいへんになると、そのたいへんさをわかってくれない、だれも助けてくれないという疎外感が先行し始め、あげくには利潤ばかりに目がいくようになり利己主義が独り歩きし、いつしか志や誇りを見失って不正行為がはびこることになる。

 こうした人間の弱さとどう立ち向かうのかは、結局その人の生き様を問題にするということにつながる。生業を営むということは金目当てだけではない。つまり利潤を越えた視点、良心やプライドがあるのか、倫理観に裏付けられた自分なりの価値観や人生観があるかないかだ。

 最近とみに宗教だけではなく倫理観をなるべくもちこまない風潮が謳歌している。共産主義思想が崩壊し市場原理に基づく資本主義が勝ち残ったこともそうした考えを加速化した。こうして経済至上主義の拝金主義が世界をけん引している。

 これと同時に、「勝ち組」がルールを作るという競争至上主義が倫理を無目的化、空洞化させる。この空洞化は精神の空洞化である。この精神の空洞化が、新たなスピリチュアリズムの温床となり、ニューエイジブームとなって、詐欺まがいの取引が横行している現実がある。「魔が差した」ではすまされない根深い問題が潜んでいるのである。

 経営が苦しい時、耐え忍んでそれを乗り越え突き抜けるには、「良い仕事をしたい・良い仕事をしている」という精神とプライドしかない。この時、試されているのはその人の人格(品格)をつくっている良心である。良心こそ、永遠・普遍・不変・絶対である。市場原理に左右されない、いつも変わらない姿勢で仕事に向かう。それこそが良心に支えられた本物の生業といえるものである。


〜正業のホコリでチリを寄せ付けず…




 


 

Posted by devil666 00:58:25Comments(0)TrackBack(0) │その他

言葉を越える

2008-09-22

無為自然=本性自然を説くのは老荘思想のほか代表的なのは禅宗である。

 このふたつには、不立文字・以心伝心という言語を越えた次元に“真理(=絶対性)”を置くという共通点がある。これは「絶対の真理」と「相対の言葉」という鋭い対立を自覚化したからに他ならない。
 「相対の言葉」というとちょっと抵抗があるが、これは「沈黙」と「言葉」という相対関係を想定している概念である。これは易でいうと「陰(=沈黙)」と「陽(=言葉)」である。敷衍し、「光(=陽)と影(=陰)」となる。比べるものがなければ、認識を成立しえない。認識を成立するための言葉とありのままの真理とは、隔たりがあるのだ。簡単に言うなら、『砂糖は甘い』ということを一度も砂糖を味わったことのない人に言葉巧みに説明しても、わからせることは不可能である。また、「甘い・辛い・塩辛い・苦い・酸っぱい」という差別化と全体系(=知的体系)があって、その本質を認識する。これはあたかも一対一で対応しているかのように信じられている事実と言葉の間には隔たりがあることを意味している。言葉は万能ではない。言葉そのものが実は「バーチャル」な世界の生き物である。対して絶対的真理性(=易では『太極』)とは、光と影を共存させる超越した基準点を持ち、対立したものを止揚させる力を持つ。

 このように言葉には限界がある。厳しい目で見ると、ありのままの現実をあらわすのに「不適」の烙印を押さなければならぬ。論理実証主義が破綻したのも当然である。一方、これとは別にウィトゲンシュタインは限りなく言葉の限界に接近しようと挑戦した。その足跡が「論理哲学論考」であった。こうして彼は生涯をかけて“語りえぬもの”を考え抜いたのである。

 東洋ではうまいぐあいに「諦観」という概念を持っていたため、それ以上思考をめぐらさず、たとえば禅では「只管打座:ただひたすら座る(=座禅すること)」として仏説(=お経)を用いながらも言葉にとらわれない方法論を確立し、あくまで言葉は実在のありかを暗示する記号やシンボルと位置付けようと考えた。荘子にも外物編に、「筌(うえ)は魚を、蹄(わな)は兎をとらえるための道具である。魚や兎をとらえてしまえば、道具の用はなくなる。つまり言葉はあくまで手段であり道具であって、真理そのものではない。真理をとらえてしまえば、言葉は忘れるがよい。」この筌蹄のたとえは禅者に愛用された。まさに“禅問答”である。つまり、目指すは自分自身が真理そのものになることなのだ。まず心の中に着眼し、「仏性の自覚(=覚知)」つまり自己の内にある本性の自然(=善)を発見し不自然(=悪)を脱皮する。これが本覚思想(囚われなき心)だ。そのことを「身体」のレヴェルで実体験して(=実体化:心身一体)悟り=無為自然なのである。

・・・仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
      〜『正法眼蔵(:現成公案)』


血のにじむような修行の末に、自分を忘れたとき、向こうから悟りはやってくる。

Posted by devil666 01:33:22Comments(0)TrackBack(0) │その他

雨の東京

2008-09-19

台風の影響か東京は雨模様でした。
今日は足元悪い中、お越しくださいました皆様、
心から感謝申しあげます。

Posted by devil666 23:13:06Comments(0)TrackBack(0) │その他

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