続きです。
昨日書いたような昔の文豪の文章は日本語としては素晴らしくても、今の時代を表すことはできません。
現代では、やはり英語になるでしょう。
とは言え、英語をあまり使うと嫌味な感じがして、あまり教養があると思われない可能性もあります。
昔も多分事情は同じで、むやみに気取った漢語を使うと嫌われたでしょう。
勿論、英語を使うだけではなく、新しい日本語を創り出そうとする試みは今でも行われています。
すぐに思いつくところでは橋本治さんが上げられます。
たしか「枕草子」や「源氏物語」なんかの新訳をしていました。
私はなかなか面白い実験だと思いましたが、一般的にはあまり評価されなかったんじゃないかな。
しかし、なにも小説家や学者だけが新しい日本語を生み出す権利を持っているわけではありません。
別に女学生が日本語を変えても一向にかまわないんです。
また、私は最近ブームになっている(本当はかなり昔からですが)、お笑いの人たちのセンスに感心することが良くあります。
ある意味では日本語の新たな可能性を切り開くものだと思っています。
要するに、すべて日本語を豊かにするための試みだと考えればいいんです。
それが時代に合ったものでありさえすれば、一般にも普及するでしょうし、そうでなければ消えてしまうだけです。
手垢のついた日本語を後生大事に使って得々とし、新しいものを何でも拒否しているようでは、そうした可能性自体を摘み取ってしまうことになります。
では。
日本語の豊かさ (5)
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