性善説 (2)

20160614074601-106ab7f02084d62bbd977454694658df51f9b813.jpg昨日の続きです。

この辺は非常に難しいところで、昔から議論がありますが、私はどちらかと云うと、性善説を信じています。

しかし、この善なる性も随分、近視眼的であることは否めません。

目の前のクジラを大金を掛けて助けても、遠くで飢餓に苦しむ開発途上国の子供たちなんかのことには思い至らないのですから。

まあ、これは別の問題ですので、一旦置くとして、ほとんどの人の性が善であるとしても、人には魔が差すことがあります。

普段、優しい人が時として非常に残酷になるんですね。

私自身も残酷で冷たい面をもっています(そんな面しかないなんて噂も)。

また、周りに影響されることもあるので、善を行うのは簡単ではありません。

こんなことは今更言うまでもないでしょうが、人はそうした複雑な存在なのです。

ところで、ここまでは実は前振りで、本当は何を書きたかったかと云うと、いじめの問題です。

昨日書いた通り、私は人は社会的動物であり、元々仲間を助ける行動を取るようにプログラムされていると考えています。

子供たちも同じと言うか、素直ですから、本来は大人たちよりも助け合う気もちがあるはずです。

それでもいじめが発生するのは、残酷さや冷たさも併せ持っていて、それが時として顔を出すからでしょう。

もう少し続きます。

では。