マトリックスの哲学(ウィリアム・アーウィン編著 白夜書房)
2006-07-20
はい、やはりこの映画はだいぶ哲学的な映画だったようで、このような本も結構出版されているようですね。
それで、この本は何人かの哲学科の大学教授の方のコラムを集めたものなのですが、まず編者のアーウィンさんが「ソクラテスの弁明」を引用しているところがなるほどなーと思いましたねー。
ソクラテスは、ある一人の政治家に問いかける、ところが多くのことを知っていると思ったその政治家が、実は何も知らないことがわかり、がっかりした。
生まれつきの粘り強さで、アテネの偉い劇作家、腕のたつ職人とあきらめずに次々と聞いて周り、やはり失望した。
皮肉なことにソクラテスは、自分が無知であることを知っている点で、確かにアテネで一番偉かったのだ。
そこで、ソクラテスは、周囲の人に問いかけ、当人の無知を明らかにして、その人たちが目覚めて自分とともに知識を求めるように仕向けることが、自分の神聖な努めだと考えた。
『少々ばかけたたとえを用いるなら、この町は馬のようなものです。−大きな馬で、元気でもある。けれども、大きいがために少々反応が鈍くなっており、アブのようなもので刺激して動かしてやる必要があります。
神は私に、アブのようにこの町に止まらせたのだと思います。いつもぶんぶん言って、一日中、人のあちこちに止まり、それぞれをちくちく刺して動かし、一人一人を説き伏せ、とやかく言うような存在です。』
ソクラテスは、たとえばアブのようにうるさく付きまとい、絶えず問いかけることで、町全体を真実に目覚めさせようとした−怠惰な無知に安住するものを待ち受けるのは、幸福ではなく、使い物にならなくなった馬を送る解体場だという真実だ。
ということで、ネオもそういう役割だ、ということですね。私たちもあの世がある、魂は存続しているなんて、知らなくても良かったことかもしれませんけれども、しらないとこう争いごととかにかまけて自分のことばかり考えて進歩がないので、江原さんのような人が出てきて少し刺激を与えられている、という感じでしょうか?(^-^)
また他の方はこういいます。
預言者のアパートでは、本編で最も核心に迫る鏡の反射像の使い方をする場面が出てくる。座禅を組んだ、仏教の僧の姿をした少年が、念力でスプーンを曲げる。
この少年がスプーンをネオにつきつけると、ネオの像がスプーンに映る。これは、少年がネオと共有する明晰さと真実を表している。ネオへの一番の大事な教え《スプーンはないんだ》である。
ここでは仏教との類似が顕著にみられる。風にはためく旗を見ている三人の僧という、禅宗の有名な問答の話がある。一人は旗が動いているという。次の僧は、動いているのは実は旗ではなく、風だと応じる。更にもう一人は、両方を否定する。旗も風も動いてはいない、
「動いているのはお前たちの心だ」
と。仏教の教えは明確だ、スプーンは動かない、スプーンなどない、あるのは心だけだ。
…鏡の中のイメージは鏡に前にある現実ではない。エッフェル塔の写真がエッフェル塔ではないのと同じことだ。仏典にあるように、月を指す指は月ではない。われわれの一番ひどい誤解は、像を本物と取り違えることである。
ただ、われわれにとって実在しているものを解釈し、定義するのは、われわれの心に他ならない。仏教の教えがわれわれを解放しようとしているのは、像と本物の認識論的な錯覚だ。そのためにはわれわれは、心を解放しなければならない。
と、私たちもそろそろ心を解放して、自分の固定観念などももどんどん柔軟にしていかなくてはいけない時期のようなんですが、そうは言っても、と、サイファーさんはこう言いますね…。
『このステーキが存在しないことはわかっている。こいつを口に放り込めば、マトリックスが脳に、ジューシーでうまいと教えてくれる。…
9年かけて、何がわかったか教えてやろうか?無知は幸福だということだ。』
ということで、私たちも幻想の世界を楽しんで生きているわけですね、でもあら、日常では楽しいことよりも苦しいことのほうが多いですか?ふーむ、その苦しみも存在しないはずなのですが…(^^;)そこでその苦労から解放されるためには…
マトリックスからの解放は自由なしの幸福な生活に満足して暮らす人間を創造するのではなく、自由な人間こそ創造しなければならない。
眠っている人類は、AIの支配者が投影する、奴隷として幸福であり続ける獲得したわけでもない光景は拒否する。
しかし、望ましい解放が、哲学者王の導きで、あるいは全能の救世主のありがたい行いのおかげで、どうできるというのか。
キリスト教のメシアであるイエスと同様、ネオは死んでよみがえる。…しかし、ネオの最後にかぶさる声による締めくくりは、別の解釈が可能だ。
救い主は例外的なスーパーマンではなく、普遍的な教師である。他人に自分と同じようになる方法を示す教師として、イエスは弟子たちに言う。
「私を信じるものは、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」。
AIの支配者に呼びかけ、みんなを解放するという自分の務めには、無限の可能性を教えることが含まれることを宣言する。…
限界のない世界、何でもできる世界とは、現実を作り、マトリックスを操作する力が誰にでもある世界である。
こんな世界が存在するためには、自己主義は克服されなければならないし、われわれは自分たちが根幹のところで互いに一体であるという理解へと、上っていかなければならない。
そう理解することで、自分の自由や、最高の理想を悟る神のような力と本来つながっていることや、死の恐怖を超えていけることがわかる。
『救世主ザ・ワン』は初めての超人的存在かもしれないが、それで最後というわけではない。
というわけで、結局私たちが利己主義を克服できて始めて徐々に限界が全体的に解放されていき、能力が徐々に上昇していく、ということのようですね。誰かが世界を救う、のではなく、真実を教えてもらうことによって自らがそれぞれ自分を救う、ということのようです、いかがでしょうか?(^^)。
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最後に、スロヴェニア共和国の大統領選にも出馬したことがあるという、スラヴォイ・ジジェク教授もこんな体験をしたそうです。
『マトリックス』をスロヴェニアの地元の映画館で見たとき、理想的な映画の観客のそばに座るという珍しい機会を得た。
私の右手に座った20代後半とおぼしき男は、映画に夢中になるあまり「ちくしょう、わう、そうだ、現実なんかない!」などと大声をあげ、ずっと他の観客の迷惑になっていた。…
はっきり言って私は、こういうふうに素朴に没頭するほうが、手の込んだ哲学や精神分析の主だった概念を映画に投影して、知ったかぶりの知的な読み方をするよりいいと思う。ただ。『マトリックス』にそういう知的な魅力があるのもわかりやすいことだ。
はい、そうですね、その熱意が持続していればその若者もフランチェスコさんのように伝道して歩いて廻っていると思うのでだいぶオーラも明るいはずなのですが、見るとそうでもないので(^^;)あまりこう極端に声高に触れ回る必要もないようです、やはりバランスですねー(^^)。
Posted by fy3on3 01:17:04 │Comments(3) │TrackBack(0)
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