美しくて面白い日本語(ピーター・フランクル著・宝島社)
2007-11-22
はい、今日は「藤枝宿」までやってまいりました(^^)、藤枝東高はサッカーが強いだけでなく、いろいろなさまざまな才能のある方も出ているんですねー。
で、ゲームもノルマを日々達成すると自動的にあがるモードにしているので、最近は1万3千歩以上歩いて、毎日一時間以上あちらこちら、高輪白金近辺のネコの通り道みたいな道も見つけながら散歩しております(^-^)。写真はイルミネーションも綺麗な東京タワー下ですね。
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さてひきつづきフランクルさんの本ですが、普段気づかない日本語のよさを再認識できましたね。その中でも大和言葉の美しさということもおっしゃっています、たとえば「恭(うやうや)しい」などですね。
でも「KO・NO・YO」で美輪さんもおっしゃっているように、カタカナ、ひらがなにしても感じを崩したものなので、四字熟語含め、中国から学んだものというのも大きいということも覚えておく必要もありますよねー(^-^)。
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で、日本語の不思議さ奥深さも良いのですが、今回もピーターさんの考え方でなかなか共感できる所を引用させていただければと思います。ではのっけからなんだか不潔っぽい感じですが…(^^;)
「目糞鼻糞を笑う」
…ただしこの諺も、「一円を笑うものは一円に泣く」と同様、世の中を治める為の言葉のように僕には感じられる。
貧乏な人が一番ねたんでいるのは、実は大富豪ではない。自分よりも、ちょっとだけお金があるような人。つまりそれは隣人だ。「隣の芝生は青い」と言う諺もある。
例えば自分と同期で会社に入社したのに、だれそれのほうが早く出世したとかしないとか。そういう身近な所に、実はねたんだり恨んでいる対象があったりする。
人生をうまくあらわしている諺だが、このような嫉妬の目を本当の大富豪からそらさせる為の言葉のように感じられるのだ。
大富豪たちにしてみれば、高嶺の花である桁外れの金持ちを見上げて嫉妬するよりも、同じ程度の隣人同士でがんばりなさい、ということだろう。
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僕の好きな数少ない英語圏の諺にこんなのがある。
「Comparison is no reason = 比較は理由になりません」と言う意味だ。
本来、比較とはあまり良いものではない。我々にとって、他人と自分とを比較しても、いいことは一つもない。
自分のほうが偉いと思い込んだり、逆に相手のことを偉いと思って劣等感を抱いたり、どちらもいいことなんてないのだ。
もし比較をするのであれば、昨日の自分と今日の自分とを比較すればいい。
今日の自分は昨日よりなにか新しいことを学んだろうか、昨日より心が広くなっただろうかと、自分自身の昨日と今日とを比較するのはいいだろう。
そうやって、みなが自分なりに成長していくのはいいことだ。
と言う感じで、ふむーなかなかスピリチュアル的な魂を磨くことに通じるご意見だと思うのですがいかがでしょうか(^-^)まぁお金持ちの方々はそれはそれで楽な生活かもしれませんが、その分気苦労も多いしお役目も多い、というのがこの世の習いですね、
人生長くても100年前後なので、実はお金持ちでいられる期間も限りがありますから、それをねたむ前に今生での自分の役割をしっかりやって、又来世などに備える、と言う風に考えていくとよいとは思います。
が、今生だって麒麟の田村さんのように何が幸いするかわからないので、日々希望を持ってですよね(^^)。せっかくですからホームレスの方々になにか支援をしたりするのもよいですよねー。
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又この本には日本語に関係ないところでですが、ハンガリーの浮気事情についても書いてありますね(^^;)。
「知らぬが仏」
ハンガリーの浮気事情を説明すると、男性の浮気相手は若い女性ではなく、相手の女性も不倫と言う場合が多い。
僕の友人に、結婚して二十年以上経つ夫婦がいる。二人はいまだにとても仲が良いけれども、旦那は奥さん以外にいつも三、四人の彼女がいる。
彼は日本に一ヶ月間遊びに来ると、ちゃんと日本人の彼女を作って楽しく過ごす。奥さんも薄々は知っているけれども、「まぁ一ヶ月ならいいだろう」と許している。
ある時、彼に「君は外で女性と遊んで、家に戻って奥さんや子供に対して恥ずかしいとか申し分けないとか思わないのか?」と質問してみた。
すると彼は「いや。これは逆にいいことなのだ」という。
「外で女性と遊ぶと、とても元気が出る。その元気のお陰で、毎日いい笑顔で笑えるし、女房や子供たちに対してもやさしい態度で接することができるんだ」などというのだ。
「じゃあ君の奥さんはどうなの?奥さんと他の男との関係は気にならないのかい?」と聞くと、
「まぁ、きっと彼女にも何かあるのだろうけれども、それについては知りたくないね。」と答えた。
彼はまさに、自分の事も奥さんのことも、浮気については「知らぬが仏」と答えたのだった。
…というわけで、まあ世の中いろいろな方がいるということですね(^^;)。又こんなこともおっしゃっています。
「やきもちを焼く」
これは諺ではないけれど、僕が面白いと思う表現の一つだ。
ドイツ語に…「やきもちとは、痛みの元を一生懸命探す趣味だ」という表現がある。
つまり、痛みなんか探さなくてもいい、探さなければ痛みなんかはない、という意味。
自分で進んで苦労を探して、勝手に痛みを感じるなんていう行為は、いわば自業自得の自虐趣味というわけだ。
実際、相手が何も悪いことをしていないのに、やきもちを焼いてしまうということが多い。やきもちを焼く人は、いろいろなことをきっかけに勝手にやきもちを焼いてしまうものなのだ。
もちろん、夫が帰宅したときにシャツに口紅がついていたり、ポケットから怪しげなホテルの領収書が出てきたら、奥さんがやきもちを焼くのも当然だろう。
でも、だからと言って、いつもいつも「もしかすると?」と疑いを持ち、夫の服のポケットを探ったり、届いた手紙を読んだりするのは、よくない。
それは自分に苦しみを与えているのと同じことなのだ。つまり、やきもちを焼く人というのは、けっかとしては一生懸命に自分自身を苦しめているということになるのだ。
それを考えると、人はもっと大らかに暮らすべきだと思う。
…というわけで、ふむーなかなか的を得てますよねー、気苦労が多くてオーラが暗くなっている人もとてもよく見かけますし、江原さんのお母様も「しなくても良い苦労はするもんじゃない」なんておっしゃってましたよね(^^;)。
ですからあまり考えすぎて被害者意識をもちすぎたり、「自分ばかり大変だ」と思いすぎて愛の電池不足で誤作動を起こさないように、つねに余裕を持って考えるということが必要なのだなァと思いましたねぇ…。それにしてもホント宣教師さんのようにスラスラと人生訓というか、生き方のヒントが出てくる方ですよね(^-^)。
この後の文章ではセッ○スに関しての興味深いお話もでてくるのですが、ここでは残念ながら自粛して割愛させていただきますので(^^;)続きはぜひ本書をお読みいただけましたらと思います。
Posted by fy3on3 00:53:07 │Comments(4) │TrackBack(0)
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