この世の中の成り立ちを知りたい
なぜ、人は生まれ死するのか
死とはなにか
生きるとはなにか
真実とはなにか
本当のこととはいったいなにか
記憶を辿ると、一番最初に”思案する”ということを行ったのは、『人体の仕組み』『宇宙の仕組み』『死後の世界』だったように思う。
何歳くらいの頃だったろうか。
小学校にあがるかあがらないかくらいに、熱を出して初めて入院したことがあった。小学1年生かな。とにかく体が弱い子供だった。
その時入院先のベッドの横にある小さな机の引き出しに、恐竜の本をたくさん詰め込んで引き出しが開かなくなって罪悪感を感じたことを覚えている。
小学校の低学年の頃に塾に通っており、その塾先には本がたくさんあった。とにかく本が大好きだった。
宇宙、人体、死後の世界、手相、色んな本を読んでいた。
中でも、宇宙と人体と偉人伝を好んでいた。
半分マンガで構成されているそれらの書籍は、とても面白かった。
宇宙には地球のように生命体が存在している星がある可能性がある。
その文章に、初めて宇宙について考えてみた(自我)ことを覚えている。
人体の仕組みは、人間の各種細胞の働きについて感動したことを覚えている。特に、白血球や血小板には驚いた。
まるで特撮ドラマ(仮面ライダーみたいな)の正義のヒーローのようにみえた。ウイルスをどんどん倒し人間を守るのだから。
ただ面白いから読んでいた、
という段階から、考えながら読む(精読)ようになったのは、それらの頃だったように思う。
僕も周りの子と同じようにマンガが大好きだった。
その頃には、横山光輝の歴史シリーズをよく読んでいた。
高校時代までそのコレクションは続いたように思う。
三国志、水滸伝、項羽と劉邦、徳川家康、豊臣秀吉、織田信長・・・
横山光輝三国志だけで60巻にもなって集めるのが大変だった。
小説も読み出していた。
頭の良い同級生は、マンガより小説を読んでいた。
吉川英治さんの文庫もよく収集したものだ。
ファミコン世代なので、ゲームも楽しんだ。
ドラクエ、そしてやっぱりコーエー(光栄)の三国志や信長の野望シリーズだ。
僕はその頃からノンフィクションや自伝が大好きだった。
小さい頃に偉人伝を読んでいたことが大きなきっかけだった。
歴史上の人物の生き様が、とても興味深く楽しく読んでいた。
自伝もマンガから小説からTVドラマ(大河ドラマ等)、映画など年齢に応じて幅は広がっていったが、ずっと変わらず愛好していたものだ。
生き様とは、イコール、死に様でもある。
人間の生き死に、そして人生の歩みはとても興味深かった。
理不尽な死に方、素晴らしいと憧れる生き様、そこには作品として織り成すベビーフェイス(善玉)もヒール(悪玉)も登場し、飽きさせることなくその人間くさい人生劇場を読み漁っていた。
生き様に触れるということは、人生を考えるということでもある。
僕は本当の意味で自我に目覚めたのは、15歳くらいだったと思う。
高校に入学したくらいの頃だ。
自我に目覚めると、自分の人生というものも考え出す。
これからどう生きていくのか。
人生とはなにか。
それらを、自分にフォーカスし考えを深めていく。
その頃から哲学書や文学書を読むようになった。
それまでの、ただ単に面白いから読んでいた、という段階から、答えやヒントを探し出すために読むようになっていったように思う。
そのくらい悩んでいたのだ。
僕も例外なく、いわゆる思春期だったのだろう。
その思春期は今も続いているのだから、少年のままということなのだろうか。
話を戻すと、高校時代はカソリックの私学だった。
結構厳格な校風だった。
週に1度宗教という授業があった。そこではカソリックの歴史を学ぶのだ。
また月に1度は全校集会としてミサもあった。
もちろんカソリック教徒な生徒ばかりではないので、一般の生徒として参加する。何かを特別するわけではなく、賛美歌などの歌を歌うくらいだ。
僕は幼稚園も天使幼稚園だったので、カソリック教徒ではないが違和感はなかった。しかし、宗教の限界というものもその高校時代に感じることになった。
それは、その頃読んでいた哲学書や文学書の影響もあった。
僕は中でも、ロシア文学者のトルストイやドストエフスキーが大好きだった。トルストイの人生論やドストエフスキーの地下室の手記は、今でも大好きで部屋にある。
彼らの一途で生真面目なまでの人生に取り組む姿や、自らの体験をつづった作品に彼らのリアルな生き様を感じた。
そしてヨーロッパの文学も好きだった。
中でも印象的だったのは、ニーチェである。
ニーチェは、キリスト主義の世界の時代で神は死んだという書籍を発表し、当時のキリスト主義的世界観を覆した人物だ。
その他に、ツァラストゥラはかく語りき、という書籍もある。
彼もまた本質の探究者だった。
そのリアルな情熱溢れる生き様に、僕は心震わし驚愕とともに感動したものだった。
彼らの考え、思想に共鳴するとかどうとかが問題ではなく、その生き様に感銘を受けたのだった。
僕はその高校時代には、まともに授業を受けることはなかった。
ま、問題児であったと思う。
既存の授業にもはや関心が持てなく、授業中にもそれらの書籍を読み漁ることに専念していた。当然、成績は下から数番目という有様だった。
高校2年の時に、人生の転機が訪れた。
哲学書や文学書という思惟の分野から、今度は自分が生きるべきか、にフォーカスしていたため、政治経済・社会学の分野にシフトしていく。
特に政治経済関連は何百冊も読んでいたと思う。
中でも、大前研一さんと落合信彦氏の書籍はお気に入りだった。
彼ら二人がアメリカの大学に留学していた影響もあり、僕も日本の教育システムに関心が持てなく、また日本という風土になじめなく生きづらさを強く感じていたため、アメリカ留学を志すようになっていた。
どうにも我慢できず、悶々さも限界に達していたため、僕は高校3年生になってすぐに転学することにした。
アメリカの自由と平等と博愛という精神と、アカデミック(学際的)な教育システムに夢を描いたのだった(アメリカの学生は浪人というものがない。それは、短大からでもハーバード等に転入転入でステップアップできるため)
この転校したのがまさに転機で今の人生に繋がっているスタートだったと思う。
それからやりたいと思ったことは何でも行動するようになった。
右往左往し、暗中模索だったと思う。
周りからはとりどめのない人間にみえたと思う。
でも、僕は信じるままにやりたいことをやろうと思った。
本質をみていきたい。
それだけだった。
そして、本質をみるには、机上の理論だけではなく、実践し自ら体験することで考えや理論を確認することが大切だと思った。
それが、今に繋がる現場・実証主義のスタンスの基礎になった。
そんな僕なので、仕事をしても友人同士の付き合いでも、変わり者と呼ばれていた。異端児と言われたこともある。
特に仕事先では、波乱児でもあったように思う。
遠慮なく問題提起や改善案を提示する。おかしいと思うことはおかしいと述べる。納得できないものはできない。
妥協や長いものに巻かれる、ということだけはどうしてもできなかった。
それが僕にとって今まで書籍やあらゆる現場でみてきた、人々の生き様や考え方歩み方という自分の血肉となっている価値観であり、それらがどうにも社会になじめなかったのだ。
モラトリアム、これは自分をまさに指す言葉だと思った。
そんな自分なため、満足する、ということが常になく、探求・向上を続けていくことになる。
ただ、生きていくには仕事が必要だ。
だが、そんな僕には長く勤め上げることもできなかった。
自分で事業をやりたい、そう高校生の頃から思っていた。
アイディアはあるが、行動力がなかった。
力を身につけたい、そう思った。
そして前職の企業に転職した。
その企業にはとてもよい経験を積ませていただき、かけがえのない体験となった。そこでは、プロジェクトを創世し、チーフとして担うことができ、契約も満了しやり切ることができた。本当にありがたい。
ずっと変わらないもの。
本質を探究していきたい。
なぜ、本質を探究するのか?
流されて生きていくことは、自分を見失うという大きな喪失感を感じるから。
生きているという実感と手ごたえを欲しいから。
それが良いとは悪いとかではない。
絶え間ない向上心とは、それは、ゆとりがないということでもある。
今はそう捉えることができる。
そう捉えることができるようになったのは、いわゆる精神世界を深く学んだことが大きい。
これは、僕にとってはスピリチュアルとか何とかいわれるような、特別な世界観ではなく、幼い頃から接してきた哲学だと思っている。
物事の真理を知りたい。
哲学は、そこから誕生した。
哲学はすべての学問の発祥であり、知の始まりだった。
哲学は、Philosophia という。
これは、知を愛する、という意味から言葉になったものだ。
なので、森羅万象や精神世界含め、すべては僕にとって「なぜ?そうなの」という哲学なのだ。
知らないことを知りたい。
知ることで気づきを得て、感動する。
その感動が、大きな躍動を生む。
躍動が、創造的な人生となる。
それが楽しいし、生きがいを感じるし、生きている実感を得られる。
だから人は知るという創造性に向かっていく。
どこまでこの旅が続くのだろうか。
霊的世界、魂の先輩(高次存在)、チャネルやリーディングというスキル
これらは実在することは確かだ。
これは、体験に基づく自分なりの摂理。
ごくごく普通のスキルであり、世界。
だって、目に見えるこの世界とコミットしているのだから。
かけ離れたものではなく、表裏一体、陰と陽、結果と本質、というようにそれらは密接な関係があり同一なものだからだ。
同一であるというのは、それらがひとつとして密接な関係がある連動性をもったもの(コミットコメントと呼ぶ)であるからだ。
僕は今、こう思っている。
特別な世界観(思想)であり、スキル(超能力的な)というスタンスではなく、自然にシンプルにそれらを発揮し、一体化されたものとして生きていきたい、と。
チャネリングをできるようになりたい。
そういう方はとても多い。
では、チャネリングってなぁに?
何か自分とは別な他者と繋がり、情報を得ることだという。
本当にそうであろうか。
それが、本道(摂理)なのだろうか。
この世の中には多くの人物がいる。
素晴らしい人も、あなたに感動や気づきを与える人もたくさんいます。
それらの方々から、あなたは有益な情報を得ることはしないのでしょうか。
僕はそう思います。
書籍、映画、芸術、人、世の中には沢山のものがあります。
この世に人間として生まれ出でて、物質的社会システムというものがあります。
そこの世界から目に見えないもの、聞こえないものは、それは見える必要がない、聞く必要がないということではないでしょうか。
それらを見ずとも聞かずとも、たくさんあるからではないでしょうか。
目に見えた世界だから、物質主義的社会でダメだ・・・ではなく、そこにそういうシステムになっているのは、なぜなのか?を深く考えていくことで意味合いも見出すことができると思う。
あなたが求めているのは、スキルを得たいということであり、本質を知りたい、学びたいということではないのではないか。
僕はそう思います。
否定しているわけではありませんからね。
実践している結果、僕は今こう思っているということです。
それにね、感じない、繋がらない・・・
そういう人は多いのですが、皆さん感じているんです。
感じる、繋がるとはなにか?
胸がわくわくしたり、情熱的にやるぞーとやる気になったり。
そういう感覚はありませんか?
自分の力だけではなく、何かの力によって成功したと思える体験はありませんか?
ラッキー!!だけで、済ませていませんか。
降って沸いてくる神秘体験を求めているだけではないでしょうか。
無いと思うということは、それを知らないということです。
知らないということは、無いということなのです。
知ること(気づくこと)で、有るようになります。
ただ、それだけのことです。
無知なのは素晴らしいことです。
無知であるからこそ、知る感動を感じられます。
そして知った後でも感動があります。
それはなんだと思いますか?
それは、知らない人に伝えるという喜びです。
知らない人が知る。知って感動する。
それは自分の感動にもなりますよね。
これらは、特別なことだと思いますか?
家庭、学校、企業、組織、国・・・
すべて、これで成り立っています。
知る者は、育みます。
育まれた者も、育みます。
特別なものなどないのです。
この世の中はすべての縮図です。
目の前の現実というこの世界に、必要なエッセンス(素材)がたくさん詰まっています。
周りのご縁ある方々との繋がりを大切にすることが、繋がりを感じることです。
それがあった上で、次のステップではないでしょうか。
あなたの家族、兄弟、友人、お世話になった人々、同僚、一見苦手でイヤだと思う人。過去に断絶した人。
すべてあなたと繋がりを持った人々です。
それらの繋がりの意味合いを、感じていますか?
自分の人生に影響を与える人の存在であったり、気づきや学びを与えてくれる人。
それらの方々は、その影響を与えた分野の先輩です。
高次の存在となんら変わりはありません。
高次を崇め奉るかのように、追い求め崇拝する人も多くいます。
それこそ特定のカタチを追い求めている物質的価値観です。
彼らは先輩にほかなりません。
そして神聖さは自らの内にあり。
自らの内に問い、自らの内にすべての答えはある。
そう言われるように、感じることも繋がりも自分の中にアンテナはあります。そして、それは常にあります。
あとは、自分が気づけるかどうかです。
僕も感謝が足りない(=気づけなことが多い)人間です。
体調を崩したのも、自分の臓器、身体は自分のモノであり、それらを振り回したことにあります。
身体の状態に心を配り(愛)、労わる(感謝)こと=体の声に耳を傾けなさい ということをお座なりにしていたからです。
ヒールは、意識の癒しです。
意識の癒しは、温もりです。
温もりを発するのは、愛情です。
特別なヒーリングを施さずとも、心を配った愛ある言葉をかけてあげること。手を握ってあげること、抱きしめてあげること。
それこそ立派なヒールです。
身体の不調和のある方に、部位をさすってあげる。
それだけで、その方には一番の癒しになるのではないでしょうか。
まずは、それらの一つ一つがベースになると思うんです。
それらがあった上で、より何か有効的なことはないのか?
と、いうことだと思います。
僕は今このように感じています。
みなさんは、どう今感じていますか?
内観は、このように書くことで効果的になったりもします。
みなさん自身の内なる声
それらに意識を澄ませてみてください。
まだまだ旅は続きます。
正直、疲れを感じることもあります。
疲れはフィジカルな肉体をもっていますので、当然ありえます。
意識レベルだけ求めても偏りであることがあります。
ヒールだけに目を向けても効果は薄いものです。
なぜなら、毎日どんなにヒールを受けても200年生きられるものではないからです。
ただ、有意義に中身(本質)のバランスを伴うことは、歩みや旅をスムーズに楽しくすごすエッセンスにはなります。
その栄養になるのであれば、それはあなたに有効なエッセンスなのでしょう。
これからも思ったことを感じたことを、シンプルにやっていきたいと思っています。
そして、自己探求の末に自分が知りえたことを、どんどん惜しみなく提供し、知らないことは多くの方々に学び、旅を楽しんでいきたいと思います。
その旅に持ち歩く道具(ツール)こそが、あなたの役割、使命です。
それらの答えも、ほら、自分で感じられるでしょう。
ちゃんとあるでしょ。
仕事も家庭も学校もすべては、知らないことを知るための旅。
ダメなことも失敗なんかもありません。
その体験の意味を知り、知ったあとは、それをどう生かすか。
生かした瞬間にその失敗は成功に生まれます。
過去を変えることができる、というのもそういうことです。
僕はこの療養の機会に、これからの旅に思いを馳せて、エネルギーを充電してみます。
それでは、また。