地山謙 ・・・ 謙譲の美徳
親鸞のことばに
「善人なおもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
というものがあります。
意味は「善人さえ往生できるのだから、悪人が往生できない筈がない。」です。
おかしいと思いませんか?
「悪人さえ往生できるのだから、善人が往生できない筈がない」が
正しいのでは?と、昔からずっと疑問に思っていました。
しかし、親鸞の言葉がやっと昨夜、私に響いてきました。
悪人とは、どれだけ修行をしても迷い悩みから逃れられない私たち凡夫のこと。
自分は愚かな人間だ、誘惑に弱く、救われ難い人間だ・・・
そう自覚のある人こそ、救われるに値する人間なのです。
善人とは、日々精進修行をしてるのだから、間違いなど起こす筈がない、
往生できるのは当たり前とたかを括っている思い上がった人間です。
勿論、悪い行いをすすめているのではなく、自分は善人などではなく、
愚かな心も持った、未熟な人間なのだと、謙虚に自分を見つめられることが
大切だということです。
例えば誰かの過失に対し、その人の間違いを鬼の首でも取ったかの如く
厳しく責めたて、こちらは悪くないのだからと正義を振り翳し、
感情任せに強く詰るということはとても醜い思い上がりの行為になると思いました。
その醜い思い上がりの気持ちが、私の中に存在し、
謙虚に生きようと思っていても、
この、安っぽいプライドを守るために必死になってしまう自分を、
小さな人間だなと、恥ずかしくも思いました。
人間、誰にでも間違いはあるものです。
私だって、相手の過ちを強く責められる立派な人間かといえば、
そうではないと思います。
私だっていつ、弱い心、怠慢、誘惑に負け、引きずられてしまうかわかりません。
しかし、そういうことが起きてしまった時、許されることではないという
厳しい現実を覚りつつ、心から後悔し、反省、涙して改心することこそ
大切なことなのだと思いました。
また、昨夜のように逆の立場に立った場合、感情的になり相手を
強く厳しく責めることと、怒り苦しみながらも何とか相手の気持ちを汲み、
何故、相手はこのようなことをしてしまったのか、そして過失発覚後、
相手はどのような思いでいるのかと、冷静に察することとでは結果、
どちらが後々、引きずらずに解決できるかということ、
身を以って体験させて頂きました。 感謝です☆
「善人なおもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
真の謙譲の美徳は、この辺りにあるのかもしれません。