いやはや、もうすごい疲れた。
どれくらいなのか、仕事もかなり大部分を閉めてたりした。
さすが、答えが出ないときには相当何かがあんのね。
緑の山羊、お前のせいだ。
って、書いたのは自分だけど。
情けない。
でも、いいか。
今更分かるのはどうなのさ、と自分の人生を振り返り思うが。
ま、私、器が小さいから仕方ないのぉ。
メェェェェェェ〜。
支持もされつつ波紋をよんだ、緑の山羊、
やっぱり、このエネルギーについて書くこと自体、大変なのねぇ。
としみじみ。
白い山羊。
これがどこのどいつなのか、分からずに、
緑の山羊について書いた。
いるかいないのかすらわかんなくて書いてみた。
だって、緑はいても、シロ、なんて頭の構造上本当にいるのかよ。
少なくとも外界の人物で、自分と同化できるほど信じれるやつなんかいるわけ無い。
どんな人同士でも、余程
洗脳されて、だか、して、だか自分に信じ込ませて、
でもしない限り、
自分以外の表の人物との間に、自分の感性との違いは存在する。
その違う部分が緑色。
だから葛藤が生まれる。
おぎゃー。
そして、暴れる。
あ、私がこの仕事で常にしていることですな。
ここ最近、いや、この仕事をしてからずっと、ずっと、
緑の山羊について、
『何を考えているのか教えてください。』
という依頼をみていた。
それが相手の心しか読まない仕事なのだろう。
それは嫌いだ。
基本的に、自分を保ち続けれる程度しか、
相手の深読みなんかしてはならない、
興信所も程度を超えたら気が狂う。
自分が危険にさらされる興信所の使い方は絶対いけない。
自分を取り戻す目的が最大限。
あれ、変な例えだ。
みどりがなぜ、そのような人物なのか、
みどりはシロにならないのか、
みどりはなぜみどりなのか、
こんな質問もかなりあった。
でも、逆に、あんまり、大きな問題にならないケースは、
みどりを知って、自分の時間を持てた人達。
この場合は問題が長期化しない。
でも、人間、いつかみどりに囚われるときが来る。
それが個人か集団か別として。
外界に白い山羊を見つけれる人なんて基本的にいない。
騙されているぐらいでないといないのである。
白い山羊、それって、本当はホントの自分。
自分の中のどこかに住んでる白い山羊。
だからである。
自分の中のどこにいるのか、分かっているときもある。
でも、挑戦だか挑発だか、知らないが、
新しいもの、理解しようと進むとき、
新しい試みが発生すると、
白い山羊は脱走する。
我を失う、ということでんな。
白い山羊、このひとは小さいのかもしれないし、
ものすごい数なのかもしれないし。
でも、自分が本当に安心したいと望むときに、
多分努力の末にみつかる。
ちょっと、山羊をおいて書いてみる。
自分の存在をきちんと認められないほどの集団の強制だの、
相手側の個性だのがあるときに、
一番大事な自分という人格だかを認められなくなる。
自分という個性が信じれなくなる。
なーぜだ。
人間の頭って、多分認められることが好きなんでしょう。
でも、それは錯覚。
自分で自分が本当に好きになる、その努力が面倒で他人の気持ちがほしくなる。
だから好んだり、結婚してしまったりしたりして。
恋愛とか、就職とか結婚を否定しているわけではない。
その罠にはまってはならない、ということだろうな、と。
自分を確実に成長させれる条件じゃないと苦しい。
好まれる人間になろう。
そこを基本に社会ルールが置かれる。
でも、社会ルールが言っているのは、
好まれる人材になりなさい。
じゃなくて、
自分を守り、越えてはならないことを指してるんです。
それが加害だろうと被害だろうと、
加害と被害が出会うのは、
どっちも自分が欠落している部分があるからなのでしょう。
相手の好意に依存する人物、
相手の力に依存する人物、
と、
相手に自分を重ねて信じたい自分。
認められることに依存している自分。
この関係があるから右側の猛獣が飛び出して、
自分と相手を同化して見つめ、
自分の気持ちが離れなくなる。
みどりに自分を接合させるから、
自分の人生狂い出すのです。
これに弱いのが人間。
自分の右側の壊れ具合、
要するに自分の主題テーマによってくる。
ま、それはケースバイケース。
ここで書いたら、死ぬまで書くことになるから無理でしょうが。
とにかく、白い山羊は自分の中にいる、
今まで自分が認めてこなかった白い山羊。
相当能力をもっているでしょうし、かわいいのでしょうし。
もし、シロが茶色になってたら、洗う方法を知ればいい。
どちらにしても、それは自分という範疇で出来ること。
みどりを見てシロを知る。
だから、
シロを見つけるためのみどりへの挑戦。
これがいつも試される。
こーいうこと。
だから一人でシロをかわいがればいいのさ、
違う。
まず、シロを見つけるには相当な孤独の時間が多分必要。
シロの茶色のしみを見つけるのも結構大変。
でも、人間は一人で生きれない。
人は人に関わらないとどうしても生きれないしシロがみつからない。
シロにする方法が見つからない。
もし、あながた見つめるドスみどり、
それがめちゃくちゃみどりなら、
そこで、シロの自分を成立させるのに学ぶ課題は死ぬほどでる。
ものすごい量である。
だから、
基本、
他人の中のみどりを見つめ、
そのみどりを自分のシロに置き変えれるのは、
(安心できるのは、という意味。)
やっぱり、そのボリュームにもよる。
もし、相手側に犯罪の匂いがするのであれば、それを防止する社会性への学び。
金のおかしさをかんじるのであれば、金銭問題を自分が決してかかえないだけの学び。
相手の心におかしさをかんじるなら、自分の心が振り回されないようになるための学び。
これをもし、人間が積む事が出来るなら、
最後は自分の意見を通すことでしょう。
絶対に曲げない自分を知るんでしょう。
そうすれば相手は変わりだす。
そして、みどりはシロに聞いてもらえる試みを知る。
でもね、みどりがものすごいボリュームの緑だったりする場合、
学ぶこちらは死ぬほど苦しむ。
本当に死んでしまうことだってあるはずです。
自分が死を覚悟するほどの学び、
それはそれで否定はしないが、
それほど自分に時間はない。
自分の時間をどれほど殺せるのか、
それによる。
老人になるまでの覚悟なのか、
みどりが、
めぇぇぇ、俺、私、それがほしかったの、
とトコトコよってくるほしいもの。
そんなものを叶えてあげるのにかかる時間。
それによる。
だから諦める。
自分のシロをさがしまくって、
やっと自分に戻れて、自分の成長を願い
前とは違う自分になれる。
だから基本的には自分えこ贔屓。
ここに自分を引きずり戻して、
安心したら、
次のシロ、いや、自分のシロを肥やすため、
違うテーマを追求する。
ってことじゃないのかな。