先月の新月(8月29日)には、
ブログ『
祈りや願掛けだけでは幸福になれない 1 』で…
また、その後のブログでも、私の持論的に、
「祈りや願掛け、祈祷や拝み… だけで、
願いや望みが叶って、幸福になれるとは思いません…」
みたいなことを綴っています。
誤解して戴きたくないので、補足しておきますが、
願望を持つことを否定しているわけではありませんし、
「祈り」という行為が悪いと言っているのでもありません。
そして、私が何と言っても、それは私の持論であり、
当然ながら、強要する考えでもありません。
そして、現実には、
「新月の願い事」や、神仏への祈り、様々なお呪い… など、
お奨めすることもあるくらいです。
ただ、それを鑑定のメインに据えることはありません。
夢や願望を実現させるために、最後の一押しとして、
「宇宙の法則」みたいな、不思議で神秘的な力の存在を、
私は肯定的に捉えていますが…
微妙に信仰心を突き、不思議で神秘的な雰囲気を漂わせ、
自らをファンタジーに演出する手段に用いるのではなく、
もっと現実的なものとして捉えています。
私の真意は、あくまで一貫して…
「夢や願望は、想い描くだけでなく、実現させましょう!」です。
ただ、その夢や願望は、何を意味するのか?
社会にとって有益で、人のお役に立てることなのか?
自分本位なエゴの延長にないか?
また、願いや祈ることにすがって、それで満足して、
現実的な努力を怠っていないか? などを問い掛けています。
例えば… 記憶に新しい「北京オリンピック」…
参加選手全員が「金メダルが取れますとうに!」と願ったとしても、
実際に、金メダルを取れるのは、一位になった人だけです。
これはいったい、どういうことなのでしょうか?
上(金メダル)を目指す意識は、向上心でもあるし、
それが「生きがい」にも繋がり、悪いことだとは思いません。
でも、なぜ? 一位になりたいのか? 金メダルが欲しいのか?
名誉欲?自己顕示欲? そんな思考も否定はしません。
「金メダルを取れば、一生の生活が保障される…」
そんな事情の選手も存在するでしょう。
「子ども達や多くの人に、夢や感動を与える…」
そんな発想や大義名分もあるでしょうし、
純粋に、そんな気持ちだけであれば、とてもステキなことです。
「で… 何が言いたいのか? 判らない…」?
そうです。私は答えを提供するつもりはありません。
そして、私も、変化しながら答えを追及しています。
自分の頭で思考しないまま、何となく… 受動的に、
多勢が支持する部分を正解として、良いのでしょうか?
一人一人が主役である大切な人生です。
しっかり考え、悩み、時に疑い、時に信じ、迷い、前を向き…
自力で、良い方向に進化し続けましょう!