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プロの占い師が集う[占いブログ]

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名前 龍宝堂亘盛
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音楽鑑賞
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旅行
出身地 大阪府
居住地 大阪府


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天龍寺 曹源池

2008-11-29

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庭園−曹源池(そげんち)を中心とした池泉回遊式庭園で、夢窓疎石の作庭。

回遊式庭園
回遊式庭園(かいゆうしきていえん)は、日本庭園の形式のひとつで、園内を回遊して鑑賞する庭園。園内を回遊する形式の庭園は日本以外にも存在するが、回遊式庭園という語は主に日本庭園のみを指して用いられる。

遊式庭園は、江戸時代に大名によって造営された大名庭園において発達した形式であり、日本庭園の集大成とも位置づけられる。

最も一般的な形式は池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)と呼ばれるもので、大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現した。園路の所々には、散策中の休憩所として、また、庭園を眺望する展望所として、茶亭、東屋などが設けられた。


ちょっと余談face_01

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天龍寺

2008-11-29

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天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は詳しくは天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

起源と歴史
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ、786−850)が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242−1246)とその皇子である亀山天皇(在位1259−1274)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(後醍醐天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。

天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約33万平方メートル、現在の京福電鉄帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、蛤御門の変(禁門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。

方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

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貴船神社結社

2008-11-28

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結社(ゆいのやしろ)
貴船神社本宮より上流300メートル、料理旅館「ひろ文」の隣り、山側の小高い地にあり、本宮と奥宮の中間にあるため中宮(なかみや)ともよばれています。

御祭神
磐長姫命(いわながひめのみこと)

由緒
古くからえんむすびの神様として知られています。
この神様については次のような伝承が残っています。
昔、瓊々杵尊(ににぎのみこと)が磐長姫(いわながひめ)、木花開耶姫(このはなさくやひめ)姉妹の内、妹の木花開耶姫を娶られる時、姉妹の父である大山祇命(おおやまつみのみこと)は姉の磐長姫も共に奉ろうとなさいました。
しかし、尊は木花開耶姫だけを召されたので、磐長姫は大いに恥じて、「我長くここにありて縁結びの神として世のため人のために良縁を得させん」と言われてこの地にお鎮まりになりました。
結社と呼ばれる由縁もこの伝承にもとづくもので、平安期にはすでに縁結びの神様として霊験あらたかだと貴族から庶民に至るまでたくさんの人々がお参りしています。


縁結びを願う人は、「結び文」を結び合わせて祈願すると霊験あらたかで願いごとが叶い、生涯の幸福が得られると申します。
また男女間の縁だけでなく人と人、子授けなどあらゆる縁結びにあらたかであると伝えられています。
今では、就職、入学、企業間の縁結びなどいろいろな願掛けに大勢の参拝があります。

以前は、境内のススキ等の細長い草の葉を結び合わせて縁結びを願っていましたが、現在は、境内の草木は大切に保護されていますので、ススキ等の草の葉のかわりに、結び文(むすびぶみ)に願いごとを書いて結び処にむすんで下さい。
結び文は本宮にあります。

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松尾大社 <まつのおたいしゃ>

2008-11-26

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松尾大社(まつのおたいしゃ)は、京都市西京区にある神社である。式内社(名神大)、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。旧称松尾神社。

<歴史>
当社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に磐座とされる巨石がある。5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大山咋神については、『古事記』に「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂されたころには有力な神とされていたことがわかる。

大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神職を務めた。

平安遷都により、皇城鎮護の神として崇敬されるようになり、「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称された。『延喜式』では名神大社に列し、その後二十二社の一社ともなった。

近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に松尾神社として官幣大社に列格し、戦後は別表神社となった。昭和25年(1950年)に松尾大社に改称した。

秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、中世以降、松尾神は酒造の神としても信仰されるようになった。

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相生の松

2008-11-26

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松尾大社の境内には、雌雄根を同じくし、「相生の松」の名で親しまれる樹齢350年を数える古木があります。昭和31、32年に天寿を全うし、現在は名松の大株を見ることができます。この相生の松は、雌雄の樹が睦まじく絡み合い、お互いに仲良く育った末に長寿を得たことから、恋愛成就や夫婦和合に、ご利益があるとして、人々から篤く信仰されている。

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野宮神社

2008-11-13

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野宮はその昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです。
 嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地でした。その様子は源氏物語「賢木の巻」に美しく描写されています。
 野宮の場所は天皇の御即位毎に定められ、当社の場所が使用されたのは平安時代のはじめ嵯峨天皇皇女仁子内親王が最初とされています。斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶しました。その後は神社として存続し、勅祭が執行されていましたが、時代の混乱の中で衰退していきました。
 そのため後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が下され当社の保護に努められ、皇室からの御崇敬はまことに篤いものがありました。

黒木鳥居と小柴垣は平安の風情を現在に伝え、源氏物語、謡曲野宮でも有名な当社は、嵯峨野巡りの起点として多くの方が訪れられます。えんむすびの神様、子宝安産の神様として全国から崇敬を集めています。


小さな神社ですが、情緒があってホッコリするような気持ちになります。

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「恋占いの石」

2008-11-07

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地主神社の境内にある、一対の小さな石。いつからか「恋占いの石」と呼ばれ、幸せな恋を願う人の心のよりどころとなっています。
一方の石からもう一方の石へ、目を閉じたまま歩いて無事にたどり着くことができれば恋がかなう。誰かの助けを借りれば、人のアドバイスを受けて恋愛が成就する。こうした伝承が、いつ頃から始まったのか、それは神代にさかのぼる地主神社の由来と同様に、はるかな昔といえましょう。
室町時代になってようやく、「清水寺参詣曼荼羅」に、満開の桜の下に「恋占いの石」らしき一対の石が描かれ、拝むような仕草の男性の姿が一人、描かれています。また、江戸時代に浅井了意が著した『出来斎京土産』でも、「目をふさぎて、掘りすへたる石より石まで歩みよるに」と紹介され、名高い京の占いであったことがしのばれます。

★古い神事の姿を今に伝える
もともと、目隠しをした者が手探りで、一定の距離をおいたものにたどり着けるかどうかで願の成就を占うという行為は、神様にお伺いを立てる古い方法だったといわれています。鎌倉時代の寺では、「目隠しをした善男善女が西門から歩きだし、篠門の石の鳥居の真下に来ることができたら、極楽へ行ける」という遊びもあったそうです。今では、こうした遊びはすっかり行われなくなりました。かろうじて、夏の海岸での“スイカ割り”に、その名残があるだけです。
まさに、古い神事の姿を今に伝えるかたちで受け継いでいるのは、地主神社のみといえましょう。
しかも、米国の原子物理学者・ホースト博士によれば、この石は縄文時代の遺物であるとの説を唱えておられます。とすれば、はるか縄文時代から地主神社にご縁の深い貴重な石。こうしたご縁の深さが地主権現への信仰を生み、良縁を願う人の心をひきつけてきたのでしょうか。
石は静かにたたずみながら、何かを語りかけてくるようです。そして、その声に導かれるように、今日も地主神社の境内では、「恋占いの石」に恋の行方を願う人々が、長い列をつくっています。

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縁切り 縁結び 碑(いし)

2008-11-06

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◆悪い縁を切り、良縁を結ぶ

主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、当宮は断ち物の祈願所として信仰されてきました。
また、戦によって心ならずも寵妃烏丸殿とお別れにならざるを得なかった、崇徳帝の悲しみのお気持ちは、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶ちきって下さいます。
男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切っていただいて、良縁に結ばれて下さい。
良縁に結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはありませんのでご安心を。


◆縁切り縁結び碑(いし)

高さ1.5メートル、幅3メートルの巨石で、中央の亀裂を通して神様のお力が下の円形の穴に注がれています。
「○○君と幸せに結婚できますように」という可愛いお願い事から、「夫と浮気相手との縁を切って下さい」といった事まで、様々なお願い事を書いた形代(かたしろ、身代わりのおふだ)が張ってあって、碑が見えないほどです。
まず、形代に願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結びます。
最後に形代を碑に貼って祈願します。



安井金比羅宮
京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70
Tel (075)561-5127

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山元麺蔵 うどん屋さん

2008-10-21

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京都でオススメのうどん屋さん「山元麺蔵」です。
うどんは、つるつるシコシコでしっかりした歯応えがあり、ノドごしも良い麺です。
野菜の天ぷらも絶品で、とくに人参が甘いのにはビックリでした。
お店のスタッフの方の対応も素晴らしく、雰囲気も良いお店です。

平安神宮の近くにあり、お参りの帰りでも立ち寄ってみては如何でしょうか?!

時間帯によっては、行列が出来る事もあるので注意して下さいね。


★手打ちうどん 山元麺蔵★
京都市左京区岡崎南御所町34
11:00〜19:45(LO)、(水)〜14:30(LO)
定休日:(木)、第4(水)

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高山寺

2008-10-18

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高山寺(こうざんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗御室派系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、また古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。


-歴史-
高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。

高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵(みょうえ)である。明恵房高弁(1173?1232)は承安3年(1173年)、紀伊国有田郡は現在の和歌山県有田川町にあたる場所で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147?1226)のもとで仏門に入った。

明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。

明恵は建永元年(1206年)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められていると思われる。

高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。

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二面石

2008-10-16

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境内にある高さ約1mほどの石像で、左右に善相と悪相が彫られており、右善面、左悪面と呼ばれ、我々の心の持ち方を現したもので、飛鳥時代の石造物の一つです。人の心の二面性を表現しているという。

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石舞台古墳

2008-10-16

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石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。昭和27年(1952年)3月27日、国特別史跡に指定される。

古くから、巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、その形状から石舞台と呼ばれていた。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。石室内部に排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロ、多武峰のふもとから運ばれた。

封土(盛り土)の上部が剥がされているため、その形状は、2段積の方墳とも上円下方墳とも下方八角墳とも推測されている。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという。

外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかりいずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたってはその周辺にあった古墳を削平し移行したと考えられている[1]。

1933年(昭和8)と1935年(昭和10)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。しかし、すでにほとんどの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。1954年(昭和29)から1959年(昭和33)にかけて古墳の復元整備事業が行われ、この時には外側の堀を掘るために上を通っていた県道が曲げられたという逸話がある。

『日本書紀』の推古天皇三十四年(626年)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。」とある。大臣は、馬子のこと。 石舞台古墳は、蘇我馬子の墓であったとする説が有力である。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰とする説もある。
水野正好奈良大学名誉教授は石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱える。

なお、昼間は公開されており、石の下に入ることが出来る。

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建仁寺

2008-10-15

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建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。

日本で最初の禅寺であり、京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松(かいほうゆうしょう)の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。


== 歴史 ==
日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西(ようさい、えいさい)がはじめとされている。栄西は[[永治]]元年(1141年、備中国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安 (日本)仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。当時、京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西ははじめ九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍 源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。

創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元 (日本)正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、鎌倉 建長寺の開山)が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となる。

建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明 (日本)文明13年(1481年)などたびたび火災にあっており、創建当時の建物は残っていない。


=== 国宝 ===
* 風神雷神図(国宝)俵屋宗達筆。金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神を描く。たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせる。俵屋宗達の代表作として名高い。原本は京都国立博物館に寄託されているが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができる。

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絶品 〜わらび餅〜

2008-10-06

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先日、行った老舗の御蕎麦屋さんのわらび餅が超旨かった。
チョットわかりにくい場所だったけど、地図を片手に探して探して〜やっとたどり着きました。


微妙な時間帯だったせいか、待ちもなくスムーズに席に案内され、座ってから周りを見渡すと満員で座敷もテーブルもイッパイでした。
座って待っていると他の人の注文したお蕎麦がボクの横を通り過ぎるたびにお出汁のなんとも言えないいい匂いがぁーーーーっw04
注文したわらび餅が届いたその場で、温かいお蕎麦も注文しました。
「わらび餅」は、評判どおり絶品で口に入れると程好い弾力を感じた後に舌の上でとけてしまいました。
わらび餅を食べ終わる頃に追加で注文していたお蕎麦が届き、出汁の香りと味、お蕎麦の歯応えとノドごしに思わず「ウマッ!!」って言ってしまう程でした。
また行きたくなる京都のお店です。

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上賀茂神社の狛犬

2008-06-02

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上賀茂神社の本殿を参拝した時、宮司の方から狛犬の説明があり、向かって右側の像は「阿形(あぎょう)」で、角はなく口は開いている。そして、向かって左側の像は「吽形(うんぎょう)」で、1本の角があり口を閉じている。両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多いが、厳密には、角のない方の像を「獅子」、角のある方の像を「狛犬」と言い、1対で「獅子狛犬」と称するのが正しいとされている。昭和時代以降に作られた物は、左右共に角が無い物が多く、これらは本来は「獅子」と呼ぶべきものである。各地の神社境内で見かける狛犬には石製や銅製のものが多いが、木造のものもある。

上賀茂神社本殿横の高倉殿(重要文化財)には、本殿にある狛犬と同系で少し小さくしたモノが、展示されていましたが、置かれている位置が左右逆で本来の位置とは違ったので宮司に尋ねたところ「わからない」という事でした。ナゼ逆位置の狛犬が作られたのか、当時の内容を記す文献もなく、いささか疑問には思いましたが、印象に残る参拝でした。

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思わず携帯でカシャッと撮ってしまいました★

2008-05-30

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思わず携帯でカシャッcamera

白いハズのbuildingビルなのにコトバでは表現できない色に染まっていましたmark_04

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ごあいさつ

2008-05-30

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アナタは、自分の弱さを認めていますか?

アナタは、自分の優しさを感じた事がありますか?

アナタは、自分のチカラに気づいていますか?


ひとりで・・・ 考えていませんか?
        悩んでいませんか?

仕事、人間関係、悪口、いやがらせ、ストレス、リストラ・・・

恋愛、嘘、不倫、嫉妬、裏切り、別れ・・・

どうしよう〜 って思う事もあるでしょう。

ココロが痛くなった時、ココロが苦しくなった時、

「癒し」
とか云われると温かくて心が安らかになって
落着いた気持ちになるのは気のせいか・・・

アナタに合った占術でリーディングいたします。

「話してもいいなぁ〜って思う事から話しかけて下さい。」

お待ちしております。


龍宝堂亘盛

mark_05 http://www.uranai-town.net/reikan/ryuhoudo/index.html

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