さて、若き雷神は、山に鍛えられぐんぐん力を養っていきました。
その成長は見事なものです。
少し前までは、ちょっと山が険しさを見せるとすぐに転んでいたのに、今では急勾配や断崖絶壁もものともせずに、軽やかに飛び越えていきます。
雷光も鋭く冴え渡り、雷鳴も地響きを伴う迫力で堂に入ったものです。
「ウォー!ついにこの高い山のてっぺんまで来たぞー!俺ってやっぱ、すげぇなー」
得意満面の雷神は身につけた力を試してみたくて、手当たり次第にそこらじゅう破壊しまくります。山は何とか持ちこたえようと踏ん張りますが、もともと持っている力量の素質は、雷神のほうがずっと上。かなうはずもありません。
たまらず山は懇願します。
「おいおい、お手柔らかに頼むよ。お前さんが強いのはよーくわかってんだからサ。それにそこまで大きくなれたのも、俺の協力があってのことだろ。そこんとこ、忘れないでくれよな」
「なにをー!今まで散々痛めつけてきたくせに!それにも負けずに俺は1人でがんばって来たんだ!てめ、今までのお返しだ!今度は俺様が鍛えてやる!」
舞い上がった鼻高天狗も真っ青の高飛車ぶりで、力を見せつける暴君雷神の攻撃に、山は打つ手を知らず、敢え無く崩れていくばかりなのでした。
前シーンでは、幼い雷神が守られた環境の中で必要な教育を受ける、いわば就学期間であったわけですが、「山頂の雷鳴」では、学を修めてめでたく卒業という場面なんですね。
しかし、めでたいはずのこのシーン、なにやら物々しい感じです。
「蛍の光」の歌声流れるような、感慨深さは微塵もないですね。
むしろ、恩を仇で返すような、はなはだ破廉恥で失礼この上ない、まるで、いつぞや騒動となった某県の成人式のような傍若無人さです。
しかし、近頃の若者はすぐキレるとか、ジョーシキがないとか、アイコクシンがないとか、いろいろ取り上げられる昨今ですが、若者に問題は付き物なんですよね。
「近頃の若いヤツは〜」の台詞は古今東西問わず、大人の若者批判の常套句であるというだけのこと。
日本だけ取り上げてみたって、若者を渋く睨むおじさんおばさん、おじーさんおばーさんの時代やもっともっと大昔から若者は何かをしでかして来ました。
大学闘争、内ゲバ、反戦、路上パフォーマンスに心斎橋ダイブ(?)等々。
形は違えどいつだって社会を鏡のように忠実に映し取り、反発し、問題を提起してきたのが若者ではないでしょうか。
世の中調和を良しとする流れの強いときではありますが、新たな世界を造るとき、時流を変えていこうとするためには、少々行き過ぎるくらいのハミダシ行動も必要なのです。
そして、そういうパワーを持つ者が若者でしょう。
爆発的なパワーを持っている。
それこそが健全なはずなのに、今の社会は若者を暴れさせない。
近頃とみに子供らしい子供が少なくなったという声が聞かれます。
おとなしい子、素直な子がイイコ=大人に都合の良い子という定義の元に、何でもダメダメ教育もよく浸透してきているようです。
あるいは、親も教師も、自分に都合の悪い部分は互いに責任を擦り付け合ったりする姿も目立ち、さらに根の深い不自然なイイコも増えているように思えます。
子供、若者は暴れて当然。
そんな自然なことを押さえつけずに、そのパワーを発散できる環境を、もっともっと上手に見つけていってあげる、作り上げていってあげたいものですね。
芸事の世界で言われる言葉で、“守・破・離”というのがあります。
まずは一つのことを習うに、その教えを忠実に守ること。
それを修めたら次にはそれを破ること。
そして最後には師を離れてこそ一人前というのです。
卒業とは、すなわち、その守られた世界から殻を破り、旅立つこと。
習い修めたことを自分のものにしたら、旧知にはいつまでもこだわっていてはいけないのです。
さらに学ぶために破る。この前向きな破壊力。
これが、より高みを目指す雷神の原動力なのです。
このヤンチャ極まりない門出とも言える現象は、それこそ、守護華神が雷神の人に雷鳴神の巡るときに嵐のようにやってくるでしょう。
周りが見えなくなった雷神さん、すこーし自重する必要も出てくるのかもしれません。
この最大限に調子づいた雷神、このまま収まるはずなどありません。
崩れ去った山を尻目に、いよいよ豪音轟かせ、高らかに旅立っていくのでした。
続きます・・・