私たちは子供のころから絶えず「我慢」を強いられ生きてきています。
欲しいものが全て手に入った幼少期を経験してきた人など無いに等しいのではないでしょうか?
「欲したものが手に入らない」ジレンマが強ければ強いほど心の中で葛藤が生まれ
与えてくれない相手を許せなくなり、与えてくれない相手に自分は傷ついたのだと殻に閉じこもる。
裏切りを受けたと思い込み、ジレンマを恨みや憎しみに変える。
子供のころは泣き叫んでその感情を解消できたかもしれない。でも大人になるにつれ溜め込み、わだかまりとして、傷として心に貯蔵していくようになる。
たとえば「こんなに尽くしたのに捨てられました。」という人がいたとする。
その「尽くす」という感情の中に、自分のエゴはなかっただろうか?
これだけのことをしたらこれだけの事が返ってくるであろうとの計算が働かなかっただろうか?
なりたい自分像の為に、自分が望む未来像の形へ相手をあてこんだという事実はなかっただろうか・・・・。
たとえば、[仲良くなりたい。そばにいたい」がゆえ、我慢をしていい子を装いいい評価を待ちわびたことはないだろうか?
いつまでたっても頑張りを解ってもらえず、それが当たり前のように扱われ、努力が報われないような感覚を痛感し、窮屈になり、
「こんなに相手のためを思ってる私が苦しんで、思いやりのない、苦しまない相手ってどうなのよ?この辛さを生み出した元凶は相手じゃないの!!!」
と憤慨する。
そこに相手に対する隠れた依存心があることはご存知だろうか・・・・。
「裏切られた」と主張する側も自分では気が付かないうちに、小さく裏切っていたりすることが多い。
まったくの奉仕の精神のみだったり、割り切りで与えていたり、愛してるという真心だけで尽くしているなら、「騙された。裏切られた。」という喪失感は感じない。
そういう視点にたてたなら「許す」という感情が沸いてくるようにならないでしょうか。。。
自分にも至らないところがあったかもと、少し考慮する気にならないでしょうか。。。
「許す」とは、実は相手があなたにした行為を容認することではなく、
あなたの傷ついた想いや心を手放すこと。。。
傷ついた心や、憎しみにとらわれタままの心や、落ち込みで感情をなくした心を握り締めたままで過ごすのであれば、それはとても苦しいこと。
まるで自分で自分に懲罰を与えてるのと同じこと。
だから、そんな傷を手放しましょう。
自分を苦しめるのはヤメましょう。
それが「許し」の効能だと私は思う。
相手ではなく、自分が楽に生きるため「許すこと」をやっていってほしい。。。