幸せのために〜行動の規範

こんにちは。

いつもありがとうございます。

この世ではいろんな事件が起きます。それを見ていると、神さま(がいるとして)は、すべての体験を許されているのかとも思えますが、

私たちが固体として存在して生きていくには、ある程度の規範がないと大変なことになります。

若いとき(これは年齢という意味もありますが、魂として若いことも含みます)は、無軌道に走ったり、行き過ぎたりということがありますが、

経験を重ねていくと、ある程度の見通しがきくようにもなっていきます。

つまり、やりすぎると後で修正しなければならなくなることを理解して、それも見通した上で行動するようになるということです。

ですが、もちろん若いときにはそんな先見の明もありませんから、やり過ぎという貴重な経験を経てやっと分別がいくらかつくようになると

いうのも、必要な体験なのかもしれません。

もうひとつ、なにかを選択するときに、誰かの意見に流されている場合、時間がたてばたつほど、苦しくなってきます。

ひとには自覚していなくても、自分なりの規範というものを持っているようです。それを決めているのは何でしょう。

なんとなく、であっても、この行動は気持ちいい、あるいは気持ち悪い、ということはないでしょうか。

本来の自分であればしないような行動をしてしまうと、自分の中の意識していない規範と実際にとった行動の間で葛藤することになります。

逆に、自分の中できちんとした規範があり、そこに従っていれば、悩むことは少なくなりそうです。

ただ、多くの人は、「他人からどう思われるかを気にする」「責められたくない」ということにも重きをおくため

目の前の人の機嫌をとるために、【悪いものは悪い】と言えなくなってしまうこともあります。

たとえ身内であっても、自分の利にならなくても、【悪いものは悪い】と認識して、自らの行動を修正していける人は強いです。

自分の中で自己矛盾を起こさなくてもすむからです。

逆に、人から強く責められるとその度に、不本意ながら折れて妥協してしまうような人は、いつまでも苦しいでしょう。

価値観などは人によってまったく違うので、相手が変わればその度に振り回されることになるからです。

また、自分の子どもが悪いことをしていても、可愛い我が子だから、と甘やかして庇うような場合は、長い目でみたら、

その子をより苦しめる結果になるかもしれません。

要は、自分の中の軸、行動の規範はどこにあるのか? ということになります。

人としてこれはやっていいことなのか、悪いことなのか、、それを決めるのはありきたりの言葉ですが、【良心】でしょう。

違う言い方で以前にも書いたと思いますが、自分のことをどう思っているのか、これでいいと思っているのか、自尊心を持てるのか

ということにも通じてきます。【良心】に沿って行動しているか、どうかということです。

良心に誓って、今の自分は最善である(ように努力している)と思えるひとは、心の平安を乱されることはないでしょう。