幸せのために〜執着はやっぱり愛でない

こんにちは。

いつもありがとうございます。

さて、今日は執着は愛ではないというお話です。

みなさんは、なかなか忘れられない人などがいますでしょうか?

振られたけれど、今でも好きで、思いが強くてどうにもならない、など、、、

だから自分は愛が強いんだ、愛してるんだ、と思っていますでしょうか?

人を愛することは素晴しいことです。

ただ、それが愛ならば、です。

残念ながら多くの場合、相手に執着していることを愛だと勘違いしていることが多いです。

このお話は何回かしてきていますが、

では実際、執着された側からしてみると、どう感じるのかというと、、、、

なんか背中にべたっと太いコードを繋げられたようになります。

そこから、私の方向きなさいよ! とか、私のこと愛してくれるんじゃないの? とか

ぐいぐい一方的な思いを送ってこられます。

わかって頂戴、構って頂戴、くれくれ、なんです。

また、思い通りにしようと無理にでもがんじがらめにしようと首に鎖をつけられていたり

相手から少しでも愛情という栄養をもらおうと、エネルギーを吸い取られてふらふらになったり、

感情的に苦しい気持ちを胸に送り込んでこられたり、

へこたれている重い気持ちのまま、腰や肩にまきつかれていたり、

相手は体がどっと重くなったり、気持ちが塞いだりすることがあります。

要は、相手にしてみれば、すごく気持ち悪いんです。絵にすると、ホラー映画?にでもありそうな図です。

相手がどうなってもかまわない、自分の苦しさゆえに相手にしがみついていたい、というのは

愛ではありません。

本当に愛であれば、相手も楽なんです。

要は、相手の自由を認めているのかどうか、相手を尊重しているのかどうか、です。

相手の都合も感情もおかまいなしなら、愛にみせかけても、それはストーカーです。

本当に好きなら、相手のことを思いだしてもそっと幸せを願う。

相手の邪魔はしません。

相手が自分をまた愛してくれのかは、相手の自由で強制できるものではありません。

愛と簡単に言いますが、相手に何か求めているうちは、愛することは実は不可能だと思っています。

何かを求めて相手に執着しているうちは、愛にみせかけていてもそれは巧妙な取引です。

相手を自由にさせることができて、相手に何も求める必要がなくなって、自立できて、

人は、はじめて愛することが可能だと思います。

なかなかほど遠いですか?

もちろん、相手のニーズを満たしあう、という関係も満足感はあります。

でも、自分の気持ちの強さ=愛 ではないです。

もちろん全部が愛でないとも言えないとは思います。

愛もちょっぴりはあるのかもしれないですが、愛でないものもたくさんあるのかもしれません。

自分は果たして、相手の自由や幸せを願っているか、(あくまで、自分が思う幸せでなく、相手が願う幸せです)

は、愛であるかのひとつの目安になると思います。