体罰に関する認識は変わらない(2)

20160901074923-9b28596f2885f3f9d7a8baba22d600beae42a1c9.jpg続きです。

「厳しく指導しないと言う事を聞かない」から子供に体罰を加えたとの意見については、ある教育専門家は、以下のように語っています。

「そうした指導はまったく効果を持ちません。暴力で子供の行動が望ましい方向に変わったり、また、教育の効果が出たりすることはないと考えた方がよいでしょう。現在では、体罰を禁止した方が、子供の行動変容を促すことがわかっています」

「子供は、褒められた→嬉しかった→次もやろうといった前向きな感情によって気持ちが変遷し、行動に表れていくものです。たとえ怒られたとしても、次は怒られないようにその行動をしないという思考の流れが必要です。しかし、『叩く』『怒鳴る』という恐怖が与えられると、子供はそこから逃れることだけに集中してしまうので、行動変容にはつながりません」

また、「殴られたけどいい先生だった」なんて話は、一般化できません。

私も中学生の時に教師に殴られたことがありますが、嫌な思い出ででしかありません。

良い先生だったなんてとんでもない。

今だったら訴えるでしょうね。

上記の専門家は、こうした美化について、「体罰を受けた子供たちが、それでも体罰をふるう教師を『いい先生』だと言うのは、殴られるときは辛く、嫌だったし、また殴られることに恐怖を感じているのだが、それをクリアした、耐え抜いたという経験を経ることでとらえ方が逆転するからです。理不尽な体罰や暴言に耐え抜いてきた自分をほめ、耐えたことは間違いではなかったと考える。と同時に、自分のためを思ってやってくれる『愛の鞭』だったんだと考えるようになる」としています。

ここに、成績が伸びたりスポーツ競技で勝利するなどの「成功体験」が加わると、さらに「美化」は進みます。

しかし、実際には暴力や恫喝が成功の直接的な要因ではないし、さらに云えば、こうした暴力は再生産されつづけていきます。

従来の運動部がその好例ですね。

もう少し続きます。

では。