体罰に関する認識は変わらない(3)

20160902020516-b83676be62bbd6c6318d8bff2f2afb618b20822f.jpg続きです。

自分は乗り越えたから、あるいは自分の青春の思い出を否定されたくないからといった理由で体罰を認めることは、今、体罰を受けている子供たちの苦しみを置き去りにしています。

同じ程度の体罰を受けても何も感じない子供もいれば、深く心に傷を負う子供もいます。

こうした感受性は人によって異なるという自明の理を考えていないのです。

話しは少しずれますが、一般社会では、暴力は禁止されています。

警察官でさえ、正当防衛や市民の安全を守るため以外の目的では、犯罪者に暴力を振るうことは許されていません(現実がどうであるかは別問題です)。

犯罪者は逮捕され、収監されますが、昔の百叩きといった暴力による刑罰はありません。

死刑があると言う人もいるでしょう。

確かに、死刑はもっとも極端な暴力ですが、これもきちんとした裁判を経て行なわれますし、執行するのは警察官ではない。

少なくとも逮捕する人間と刑を行なう人間は別にしないといけません。

なぜなら、かならず行き過ぎが起きるからです。

学校においても、教師に体罰を行なう権利を与えると、必ず乱用する人間が出てきます。

これは家庭でも同じで、子供の虐待は常に「しつけ」の名目の下に行なわれていることはご存じの通りです。

話を戻すと、結局のところ、体罰でしか言うことを聞かせられないと主張する教師は努力を放棄しているだけなのです。

では。