俳句名人(補足)

20170328092525-ac9cd1c44587d06af0881b2d21fa73c65fb2005c.jpg続きです。

俳句が形式に捕らわれすぎているについて少し補足します。

たとえば、俳句では「お題」が出されます。

「花」とか「雪」とか。

俳句ではと言うか、日本では「花」と言えば桜のことだそうです。

まず、こんなわけのわからない決まりがある。

まあ、それは置くとしても、「お題」を出されてそれをテーマにして句を詠むというのは、順番が逆ではないでしょうか。

「桜」の美しさに感動したから詠むのではなく、「桜」が「お題」になったから無理やり感動している。

さらに言えば、花を見ると感動するものだとの決まりがあってそれに合わせているだけのような気がします。

そんなものに詩が生まれるはずがない。

そう言えば、俳句には季語入れることになっていますが、これもかなりいい加減なんですね。

大正から昭和にかけて、多くの俳人が食えなくて困窮しているのを、見かねて、角川書店の創業者、角川源蔵が「俳句歳時記」を出版し、その売り上げで多くの俳人を援助したのだそうです。

その一方で、俳句には季語が必要だ、という勝手なルールをでっちあげ、自社の「俳句歳時記」を買って読まなければ、俳句ではない、という世論を作った。

だから季語の明確な選択基準はありませんし、歳時記によっても違ったりします。

また、私の個人的な好みで申し訳ありませんが、私は自由律俳句(定型に縛られずに作られる俳句を言う。季題にとらわれず、感情の自由な律動を表現することに重きが置かれる。ウィイキペディアより)のほうが好きですね。

尾崎放哉や山頭火が有名ですが、心に刺さってくるものがあります。

興味がある方はインターネットに紹介されていますから、一度、読んでみてください。

ちなみに私の好きな自由律俳句は「歩いても、歩いても、偏平足」(詠み人知らず)です。

では。