昨日の続きです。
「行く」や「歩く」の可能形は、「行かれる」「歩かれる」。
今でも「用事があって行事に行かれない」「そんなに遠くまで歩かれない」など、特に上の世代や、かしこまったシチュエーションなどで使われています。
この表現に対して、室町時代ごろから「行ける」「歩ける」といった可能動詞が生まれ、もともとあった「行かれる」「歩かれる」と併用されるようになったのわけです。
「行かれる→行ける」「歩かれる→歩ける」の変化をローマ字で書いてみると
「ikareru→ikeru」「arukareru→arukeru」
となり、「ar」が抜けていることがわかります。
つまり「ら」抜きではなく「ar」抜きです。
ただし、この「ar」が抜けるメカニズムについては、よくわかっていません。
ところで、「ら抜き言葉」が登場しだしたのは、普通信じられているよりも古く、大正時代にはもうあったそうです。
それはいいとして、「行かれる→行ける」のように、長い時間をかけて生じた言葉の「時代差」については、私たちも「言葉は移り変わるもの」と許容します。
ところが「見られる→見れる」という、祖父母世代と孫世代が共存する中でリアルタイムに起こる「世代差」については、ある程度以上の年齢の人は「正しい日本語ではない」「日本語が乱れている」として許さないんですね。
他の言葉の乱れも同じですが、結局のところ、みんな自分が若かったころの日本語にこだわり、狭い知識で、正しい日本語がどうしたなんていっているだけなんです。
まあ仕方ないと言えば仕方ないことなんですが、ただ、日本語の専門家であるはずのアナウンサーなんかが同じようなことを言うのは問題でしょう。
では。
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