天才と秀才(2)

昨日の続きです。

ランボーは15歳で詩作を始め、17歳で世に出た後、19歳で詩を捨てています。

当時の流行とはかけ離れたスタイルのために、認められなかったということもあるのかも知れませんが(彼の詩が認められ、「象徴派」の代表詩人といわれるのは、その死後のことです)。

そして、アフリカにわたり貿易商人になるんですね。

二度と詩作はしません。

あまりにもいさぎよい人生だったと言えるでしょう。

勿論彼はその生き方だけで評価されているのではありません。

やはり詩が愛されているんです。

素晴らしい詩が沢山ありますが(と言っても限られています)、母音に色を感じて作った詩などが有名ですね。

余談ですが、最近の研究ではこうした人を、共感覚を持っていると言うそうで、たとえば音階に色を感じる例もあるとのことです。

外国の詩を理解するのは大変ですが、興味をお持ちの方は一度読んでみてください。

そう言えば、昔読んだ本に面白いことが書いてありました。

アインシュタインは相対性理論を言葉や数式として得たのではないんだそうです。

イメージとして得た。

言葉や理論的な構成がまったく関与しない純粋な情景として。

つまり、頭の中でイメージとして想定し、その映像をいろいろとこねくり回した後で最後に数式として出力したわけです。

どうです、わかりますか。

残念ながら、数学がまったく不得意だった私にはよくわかりません。

ランボーの色と母音と同じで、天才と言われる人の感覚が普通の人とはぜんぜん違うのでしょう。

普通の人が努力して何とかなるというレベルではない。

次元が違うと言うか。

私たち凡人は天才の世界をある程度想像はできても、本当に理解することは永久にないでしょう。

もう少し続きます。

では。