成熟社会と命の世話

かなり前にある哲学者が新聞に「成熟社会はみなが子供でいられる社会だ」とのコラムを書いていました。

以下に内容を要約して紹介します。

−昔、日本人は「命の世話」を自分、家族、地域で担ってきた。

お産は自宅で、死も家族が看取り、地域で埋葬した。

食事も教育も排泄物の処理も自分たちでこなした。

現代はこうした行為の大半を民間や公共のサービスに委託している。

誕生も死も病院で世話され、教育は学校、料理は外食産業に頼る。

豊かで便利で安心できる社会、成熟社会を追求した結果である。

しかし、いつの間にか自分たちの命を自ら世話する能力を失った。

たとえば大震災の時に、ライフラインがストップすれば、どんな水が飲めるかが分からない。テントも立てられない。

多くの専門家を生んだが、生きていくための基礎的な能力を失った。

すべてをシステムに任せていればなんとなる。

成熟社会は皮肉にも人が成熟しないで生きていける社会だ。

ある部分では秀でていてもトータルの人間性では子供のまま。

それで年老いていけるのが現代である。

大人のいなくなった幼稚な社会とも言える−引用終わり

ありがちな意見ですね。

しかし、社会の進歩とはそうしたもで、分業化と専門化がどんどん進んでいくわけです。

確かに昔はあらゆることを自分でやってきました。

しかし、それではできることが限られるし、非効率的だから分業が始まったんです。

貿易も元々はそうです。

物々交換をして余ったものを与え、必要で不足しているものを受け取ったわけです。

仕事もなんでも自分でやろうとすれば当然ながら限界がありますし、できないことも沢山あります。

こうした問題を解決することによって社会が進歩してきたんです。

明日に続きます。

では。