成熟社会と命の世話(続き)

昨日の続きです。

すべてのことを自分でやることは可能かも知れませんが、その場合、食べ物を手に入れるだけに毎日の時間のほとんどを取られることになるでしょう。

農業にしても肥料からなにからすべて自分で作るわけですからね。
漁業でも同じことです。

そうしたことを避けるために本来自分でやるべきことを他人にやってもらってお金を払うというシステムができて社会は発展するようになりました。

言い換えれば、時間や技術を買うと云うことです。

勿論、そうした形での社会の進歩を拒否するとの考え方はあるでしょう。

そこまで極端ではなくても集団内ですべてをまかなおうとする完全自給自足の生活を営む人たちは実際にいます。

たとえばアメリカのアーミッシュです。

彼らはプロテスタントの再洗礼派の一派で、「従順」「謙虚」「質素」が自らの生き方の基本としています。

その生活には電気も水道もテレビも電話も自動車もなく、質素な服装をするなど、厳しい規律を守って一種独特の文化を形成しているんですね。

ハリソン・フォード主演の映画「目撃者−ジョン・ブック」で有名になりました。

そう云えば、ヒッピー文化がもてはやされた頃に、コミューンというのが流行ったことがあります。

原始共産制をとった集団生活ですね。

これもある程度自給自足を行い、近代的生活に背を向けていました。

しかし、結局はすべて失敗に終わったようです。

私が言いたいのは、食料を手に入れることに追われる生活からは決して芸術は生まれないと云うことです。

芸術は文明の贅肉であるとの話がありますが、物質的に豊かにならなければ精神的な豊かさが生まれるはずがありません。

自分ですべてをまかなっていた時代には、人々は精神的な余裕を持つことができなかったでしょう。

結局は昨日紹介した哲学者の意見も昔は良かったという意味のない話の一種でしかありません。

では。