宗教の本質

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今日、様々な宗教が存在する。商売繁盛とかいってひたすらご利益を求める宗教もあれば、奇跡を見せて病める人々を引導する宗教もある。

必死に解脱をしようと努力する宗教もあるし、世界平和のために日々実践躬行する宗教もある。

レベルは千差万別だが、動機は等しく、幸せな個人から、家族、社会、国家、世界の実現を希求している。

どこの宗教団体に属するかは個人の自由だし、何を信じるか自由である。

重要なことは、信仰をすることによって、人格が改変されるか否かである。肉体の邪悪な欲望に打ち勝ち、煩悩を除去するかどうかが、最重要課題だ。愛を語るのはそのあとの話だ。

つまり、「人格革命」がなされなければ、真の信仰とは言えない。

極端にいえば、どの宗教団体に属していても、ある程度まで人格を変えることはできる。しかし、完全なる人格は、救世主を迎えない限り完成させることは不可能である。

信仰が長くなると、自分が悟ったかのように錯覚する輩もいる。

不足な人を見て批判したり、傲慢になる人もいる。

甚だしくは、他人の言動を干渉したり、「おたくの宗教は間違っている」「我々の宗教のほうが正しい」と、あたかも自分の信仰しているところが一番であるかのようなことを言う。それは、井の中の蛙である。

余りにも愚かである。人は人、自分のことだけを心配すればいい。

イエスは「自分の目の中に梁があるのに、他人の目の中の塵(おが屑)を取ろうとするな」と言われた。

他人のことを批判するな、自分の欠点を悔い改めよ、ということである。

降りかかった火の粉は払うしかないが、火の粉をまき散らす側になってはいけない。

「宗教とは神と人との関係である。神とは...宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う...凡ての宗教の本には神人同性の関係がなければならぬ、即父子の関係がなければならぬ。しかし単に神と人と利害を同じうし神は我らを助け我らを保護するというのでが未だ真の宗教ではない、神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本でなければならぬ、我らが神に帰するのはその本に帰するのである。また神は万物の目的であって即ちまた人間の目的でなければならぬ。人は各(おのおの)神において己が真の目的を見出すのである。手足が人の物なるが如く、人は神の物である。我々が神に帰するのは一方より見れば己を失うようであるが、一方より見れば己を得る所以である。基督(キリスト)がその生命を得る者はこれを失い我がために生命を失う者はこれを得べしといわれたのが宗教の最も醇(じゅん)なる者である。真の宗教における神人の関係は必ず斯くの如き者でなければならぬ。...かく最深の宗教は神人同体の上に成立することができ、宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得するのにあるのである。即ち我々は意識の根底において自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を実験するにあるのである。...」

これは、哲学者・西田幾多郎の『善の研究』の「宗教の本質」から抜粋したものである。

神や霊的世界を否定する哲人が多い中、これほど深い世界を探究した人は数少ない。

哲学者というより、宗教家のようだ。そのため、他の哲学者から批判もされた。

私の宗教観は、少し異なる部分はあるが、西田氏に近い。

アンダーライン部分に関しては、私の見解は...

「神は人間の目的であって、人間は万物の目的である」と、私はみる。

なぜなら、万物は直接神に通じることはできないからだ。

動物や植物、鉱物はすべて人間に喜びを与えるためであり、人間が万物を愛する姿を見て、創造主・神は喜びを感じるようになっている。

西田氏が神と人間の関係を"父子の関係"と説いたことは、イエスキリストの影響を受けていると思われるが、このように言明したことは称賛に値する。