朝聞道 夕死可矣

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掲題の言葉は、誰もが知る有名な論語《里仁》の一節である。

「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」

これは、「朝に人としての道を聞いて悟ることができれば、その日の晩に死んでも悔いはない」と、解釈している人が多いが、孔子が到達した境地は、衣食住を中心とした人生を送っている人たちには到底理解できない世界ではないだろうか。

これと同じような言葉が聖書にある。

それは「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きる」というみ言(ことば)である。

肉体の寿命を生かそうと一所懸命に生きても、霊的なものを無視して生きれば永遠の愛の世界では死んだような状態に陥ってしまう。しかし、肉体の寿命を犠牲にしても永遠の価値(真・美・善、愛)を求めて生きれば、肉体が亡くなった後でも永遠の世界で生きることができる、と解釈する。

孔子は、"天"という存在を認めていた。肉体でどんなに長生きしても、道(真理)が分からなければ生きる意味がないことを悟っていたのだ。霊魂は永遠なので、その世界に生きるための糧(真理)を得ることができれば、肉体の寿命は問題にならない。肉体が長生きすることに価値はないからだ。

私も最近この世界観がよく分かるようになった。肉体に執着しない生き方はとても平安である。