プレ〇トの「俳句の才能査定ランキング」で名人と特待生を集めた特別編を放送していました。
お題は私が前の文章で取り上げた「桜」でしたが、まあ時期を考えると当たり前ですからシンクロシニティというほどではありません。
それといいとして、「桜」は日本人の心だからとか、昔から日本人に愛でられてきたものだからとの理由を上げていましたが、やはり思った通りですね。
感動すべきものだから無理に心を感動させてというか、感動したつもりになって、俳句を詠むわけです。
だからできた俳句は上っ面だけでまったく感情のこもっていないものばかり。
私が評価する(私の評価なんか意味ありませんが)フルーツ〇ンチの村〇さんも今回は振るわなかったですね。
しかし、桜を見てもまったく心が動かなかったらどうするんでしょう。
動かない様を句に詠めばいいのかな。
そんなものが評価されるとも思えませんが。
それから、今回の「俳句の才能査定ランキング」では、順位が低い人間が高く評価されるなんてことがありましたが、これも評価基準がいい加減だからでしょう。
また、講師は「この人は勉強している」とたびたび口にしますが、前にも書いた通り、詩は勉強してどうにかなるものではないでしょう。
結局のところ、俳句は詩心がない人間が技術で擬似的感動を作り出すものなのでしょうか。
では。
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