ラストエンペラー その2

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消えゆく帝国と運命を共にした”コンスタンティヌス11世”

彼は自らの運命を どう感じていたのだろうか・・・?

彼が兄であるヨハネス8世の跡を継ぎ、皇帝に即位した当時の帝国は空前の灯であった。
帝国全盛期には地中海を囲むようにあった広大な領土は、見るかげも無い程わずかになり、オスマントルコに包囲され年貢金を支払って生きながらえていた。
まさに、スルタンの鶴の一声で帝国の運命は決まってしまう状態!

コンスタンティヌス11世は、わらをもすがる思いで同じキリスト教国のヨーロッパ各国に 自らも出向き また再三 使者を送り援軍を要請する日々がつづいた・・・
しかし、当時のヨーロッパは異教徒相手に十字軍を結成するより、同じキリスト教国同士の領土争いに忙しくしてる有様!
とてもじゃないが 援軍など期待出来ない。
そんな苦境の中でも 皇帝コンスタンティヌス11世に嘆き悲しむ時間など無い! 彼は 対オスマントルコに奔走した。
帝国内の戦闘可能な兵力は4800人足らず、ジェノバ ヴェネツィアからの援軍を足しても わずか7000人程・・・それに対し敵の兵は16万!
どうみても絶望的だ!!
それに追い討ちをかけるよう 昔の予言が人々の噂にのぼり始めていた。

“コンスタンティヌス1世と同じ名をもつ皇帝が帝国を治める時、帝国は滅びる”

コンスタンティヌス11世も この予言を耳にしたであろう。
彼は 皇帝に即位した時から ローマ帝国という足かせをはめられ 迫り来る危機に奔走し、心休まる日など無かった。
時に 神に祈りを捧げ 奇跡を信じ 希望を持っては絶望し、を幾度となく繰り返したであろう。
それでも彼は、どんな時にも忍耐強くあり 人々への配慮を忘れなかった。
時には、対立する味方の意見の調停役を自らかってで、時には、城壁の補強に駆り出された工夫に対しても気軽に声をかけて回った。

(緋色のマント姿のコンスタンティヌス11世と、当時の情景が私の脳裏に浮かび 胸が締め付けられるようだ・・・)

数ヶ月に及ぶオスマントルコ軍の猛攻に、防衛軍はよく耐えた。
コンスタンティヌス11世の人柄に心打たれた 兵士と住民の働きがあったからかもしれない、、、

1453年5月29日未明に始まったオスマントルコ軍の総攻撃・・・
それに対し防衛軍は、いつも同じ兵で新たな敵兵を迎え激戦に耐えた。
だが、不幸な事に 防衛軍が奇襲作戦に使っていた小さな門の鍵をかけ忘れ、そこから敵兵300人程が城壁内に侵入した。
小さな門である為、一機に多勢の敵が入っては来れない!
素早い防衛軍の対応で、侵入した敵兵を皆殺しにもできたであろうが、ローマ帝国の負のサイクルは ここに来て勢いを増してしまった。
防衛軍総指揮官が 至近距離で放たれた敵の矢に倒れた・・・これにより、防衛軍の士気は下がり総崩れとなった。
その光景を目にした皇帝コンスタンティヌス11世は“これまで”と悟ったのであろう。
彼は、自らの身分を示す物を脱ぎ捨て 数人の騎士を従え 皇帝が通るにしては あまりにも似つかわしくない小さな門から 敵の真っ只中に消た・・・

初代ローマ皇帝アウグストゥスから約1500年!
コンスタンティノープルに都を移した コンスタンティヌス1世から約1100年!

一つの時代と言うより 塩野七生氏の言葉を借りると“一つの文明”と言うとてつもない重荷を一人で背負ったローマ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世最期、、、

(彼の運命は あまりにも残酷すぎる...)

コンスタンティヌス11世の時代より 約550年の時が流れ、、、

*次回は、彼が愛した街に残したメッセージを書きます。