「唄を忘れたカナリア」、詩と歌詞

IMG_0016.jpg大変唐突ですが、本を読んでいると何の拍子か「唄を忘れたカナリアは」のメロディが頭の中を流れました。

この唱歌は最近では教科書にも載っていないそうです。

しかし、私の子供のころはよく歌われていました。

実はこの歌の歌詞はかなりサディスティックなんですね。

ほとんどの人は知らないでしょうが。

一応、紹介しておきます。

「かなりや (西条八十・作詩 / 成田為三・作曲)

唄を忘れた かなりやは 後の山に 棄てましょか いえいえそれは なりませぬ

唄を忘れた かなりやは 背戸の小薮に 埋めましょか いえいえそれも なりませぬ

唄を忘れた かなりやは 柳の鞭で ぶちましょか いえいえそれは かわいそう

唄を忘れた カナリアは 象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に 浮かべれば 忘れた唄を おもいだす」

唄を忘れたからって、山に捨てたり、埋めたり、鞭でぶったりと酷い扱いです。

まあ、それはいいとして、作詞をした西条八十はフランス文学者で、詩人でした。

しかし、今も昔も詩では生活を支えることはできません。

そのため西条八十は友人からの勧めに従って、歌謡曲の作詞を始めます(多くの詩人が同じことをしています)。

そして大変な売れっ子のなるのですが(代表作に「東京行進曲」、「青い山脈」、「蘇州夜曲」等があります)、彼は生活のために歌詞を書くことに忸怩たる思いがあり、その心情を「かなりあ」に託したらしいんです(別の説もあります)。

ことほどさように歌詞と詩 (英語では、歌詞は昔はwordsで今はlyric、詩はpoemです) とでは、まったくレベルが異なるものなのに、多くの人はどうもそのあたりのことがわかってないようです。

ブログでも自作の詩なるものが沢山紹介されていますが、ほとんどすべてが幼稚な感傷を書いたもので、申し訳ありませんが、取るに足りないと云うしかないレベルです。

せいぜいが歌詞程度のもので、言葉の選び方一つでも研ぎ澄まされたセンスを感じるようなものはありません。

勿論、歌詞であっても文学性の高いものもあります。

英米ではポール・サイモンとか、ボブ・ディラン、後期のジョン・レノン、日本では中島みゆきの作品が例として上げられるでしょう(私の知識は狭いので他にもいると思いますが)。

ただ、一般的に言って、歌詞は、曲に乗せなければならない、わかりやすくなければいけない、聞く人々に親しみを持ってもらわなければいけない等々の制限があるためなかなか
芸術性の高いものにはなりません。

少なくとも自ら詩人を称するような人間は、その差をはっきりとわきまえていなければいけないでしょう。

では。