徒弟制度的修行に意味があるのか

20151030002859-965ff3c23c0250511bc22770a642de245df630a2.jpgのサムネイル画像最近、堀江貴文さんが、「寿司職人として一人前になるためには飯炊き3年、握り8年の修行が必要などという話があるが、問題なのは職人としてのセンスであり、何年も修行するのはバカだし、長い期間の修行や苦労によって手に入れたものは価値がある、というのは偏見で、寿司職人の修行というのは若手を安月給でこき使うための戯言に過ぎない」と発言して話題になっています。

当然ながら、これに対して、職人の技術を馬鹿にしているといった反論が。

代表的なのが「寿司は日本の伝統食であり、美食の象徴でもあります。やはり一流を目指すとなると、現在第一線で活躍する巨匠たちの辿ってきた道、つまり『飯炊き3年、握り8年』を実践するのが一番確かな道です」でしょうか。

しかし、この反論は全然説得力がありませんね。

日本においては職人技が尊ばれる沢山の分野がありますが、その大半が衰退しつつあります。

こうした分野ではノウハウをブラックボックス化し、それをもったいぶって、自分で見て、盗んで覚えろなどと極めて非効率的な教育を行ってきました。

その一つが寿司職人の世界ですね。

上に書いたように一人前になるためには10年間の修業が必要だったわけですが、しかし、飯を炊いたり、魚を切ったりを学ぶのにそんなに時間はいりません。

技術だけを教えるのであれば1年間くらいで十分です。

実際にそういう学校もあります。

要するに、昔気質の職人は教えるためのノウハウを持っていないだけなのです。

メソッドもなければ、教えると言うことを本気で考えたこともない。

その上、自分も苦労して覚えたのだから、弟子も苦労しなければいけないなどど、まったく根拠のない理屈を並べます。

実際には嫉妬でしかないのに。

その上、こうした名目の下にいじめまであります。

続きます。