体罰の是非を巡る議論にうんざり(2)

20170910081505-baea8811844b331e4bef82943cace2a4be0cb018.jpg昨日の続きです。

愛のある体罰は許されるとの理屈は本当によく聞きます。

しかし、愛があるかどうかは誰が判断するのでしょう。

客観的に証明できますか。

体罰を行なう人間はこうして言い訳を口にしますが、これを認めていたら必ず悪用する輩が出てきます。

そしてやりすぎも起きるでしょう。

これは言ってみれば、警官が自分が逮捕した容疑者を自分の判断で罰するようなものです。

この警官は自分が正しいと思うでしょう。

しかし、判断は検事、そして裁判官が下し、刑罰は専門機関が担当するものです。

警官は捜査し、逮捕する権利しかないのです。

今回の件で言うと、ドラム演奏者の中学生を羽交い締めにでもして、数人がかりでもいいですから、退場させ、その後で責任者が処分を決定すれば良かったんですね。

いくら口で言っても聞かないと思っても、その場でビンタする必要はまったくありません。

他のケースでも同じことで、問題がある子供は、その場は一旦下がらせ、後で処分を考えればいい。

どうして処分(体罰)を急ぐのでしょう。

その処分が正しいという保証はないのに。

そんなに自分の判断に自信があるのでしょうか。

あるとすればそれは単なる自信過剰で、それも問題だと思いますが。

もう少し続きます。

では。