まずはじめに

ひとはふつう生きる上で、どこかに「確信の根拠」を求めていると存じます。
その確信の度合の多い少ない、または深い浅いという程度はおそらくあるでしょうが、客観的な基準であるものさしを持ち合わせておらず、その判断の妥当性を共有することができない宿命を持っていると思います。

科学のあり方やはたまた認識の様相について哲学的に考えることのないまま、「科学万能」神話をひとは鵜呑みにしてしまって、ここぞとばかり科学至上主義が大手を振ってまかり通ってしまっておりますが、世界に起こっている出来事や昨今の社会情勢不安にどこまで対抗できているかというと、人間の儚さや傲慢さがことあるごとに浮き彫りになり無情感に苛まされます。

そこでここでは、まず「無知の自覚」ということを問題にしたいと思います。


なぜ、人は「不安」に襲われ、不安と向き合わねばならないのか。


ハイデガーは不安を根本情態性=根本気分と称し、恐怖と区別します。恐怖は対象がはっきりとしていますが、不安とは「なんとなく不気味である」という情態のことであり、特定のものや人との関係を見出すことができない、世界の内で全体との意義が滑り落ちている世界の中に投げ込まれた自分、そうした自分の可能性について気遣っている状態であると定義しました。

不安になるとは、それ自体の存在性を問題としており、突き詰めると「死」に由来するものであるから、実に不安というものは「生きる」ということを根底から規定しているものであるとみなしたわけです。

この不安を顕在化する、バックボーンである「死」を自分の可能性として引き受けること、これが先駆的決意性=覚悟になる。

つまり、「わかり得ないもの(=死後の世界)」と直面している人間、生きているうちでは「答えの出ない世界」と境界している「生の事実」を踏まえることが無知の自覚であると言えるのではないでしょうか。

現科学では取り扱えない領域である「死」を前提にし、「不可能の可能性」を追求してみること、これが『占う』という行為に直結する。未来に挑む姿勢とは、その存在をかけて未だ見ぬ未来の可能性を追求しようとするチャレンジに他ならぬ。こうした覚悟を決めて、命をかけてチャレンジする精神を「占うという行為」に重ねて、知の限界を超えてみたいと思うのです。