我々は神仏に守られている。
しかし「神様、私をお守りください。」
と祈るだけでは守られない。
ここでの守るとは「肉体」を守ること。
心や精神も大事。
それは肉体が存在していることが前提。
遠藤周作氏の著書「沈黙」にキリシタンが海に作られた
十字架に縛られ死に逝くさまが書かれている。
村人たちや神父も「神様助けて」と一心に祈る。
しかし、星は夜空を飾り海はいつものように満ち
十字架を飲み込む。
空が割れ天使が舞い降り
村人が助かる。そんな奇跡は起こらない。
キリシタン狩りで長崎奉行の役人が村に来た時
村人には幾つかの選択肢が与えられた。
私は村人の心を惑わした。心に響いた選択肢。
これが神様の声だと思う。
踏み絵を踏めばよかったのだ。
この不届き者がと思われるかも知れない。
しかし踏まなかったのは本人の意思。
意地だったのか。
貧しい現実からの逃げだったのか。
自身の信仰の深さを示したかったのか。
村人の心に沸いた踏み絵を踏むか踏まないかの迷い。
それこそが神様の声だった。
神様は人間を無限に愛していると
キリスト教では説く。
「踏んでもいいよ。踏みなさい。そしてお前は生きなさい」
神様はそう言ったと思う。
もし、神様の声が聞けたら
踏み絵を踏んで命は助かったと
私は思う。
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