「癒し」という言葉があたかも絶対性を含有し
現代社会において蔓延っているなぁと感じてます。
一度この癒しの作用を求め始めれば、 肉体的なものから、結局、 究極の精神的な安定までを欲することになります。
真面目な人であれば その支柱となるもの、
自分の根底を支えるひとつの原点を定めたく
いかにしてそれを定めればいいのかと
思考していく癖をもっているでしょう。
ひとはよるべきものをもち、頼りたい思いをもつ弱さがあります。
人類歴史は依存と自立のせめぎ合いの中で 「客観性」と「主体性」という認識を拡張し
そこから科学についての信頼が生まれ
さらに「合理性」と「個人主義」という大きな潮流の中で 人類は歴史を「進歩」と定義づけて進んできました。
こうした中で、現代哲学、および現代思想は 現象学、実存主義、構造主義、ポスト構造主義 はたまた分析哲学、倫理学など
それらは西洋精神文明の行き過ぎた危機を自覚し
近代における進歩主義的歴史観についての自己批判を繰り広げていると言って良いものがあると思います。
もっぱらSDGsにおける「多様性」とは、そんな流れの中での 一種妥協の産物のような意味が含まれているような気もしています。
「人間の弱さ」をいかに克服し、「共存」が可能か。
こうした背景から「コミュニケーション」全盛の機運がもたらされた
もっと具体的に言えば、インターネットこそが、深いレベルでの集合的な無意識が顕れる足がかりとしての舞台となった
もし存在論的な意味として、この現代の潮流を取り扱うことを考えるなら、たとえばハイデガー的な視点からすると源流にあるものに「不安と退屈」を見出しその「根本気分」の反映と位置づけられそうな感じもします。
さてどこまでニーチェ流のニヒリズムと合致しているかは別として
現代を「ニヒリズムの到来」とひとことで表現することもあながちまちがいではなさそうです。
本来、ニーチェ思想のニヒリズムの自覚という肯定的な側面に「主体性」が挙げられます。
このニヒリズムを自覚化してこそ、本当の主体性が顕れるという逆説的な捉え方です。
つまり、本物の主体性とは、無謀に自己を主張するということではない。
自分についての謙虚な自覚がまず、あります。
ひとは不安や退屈という虚の状態から回復させ ともすれば安易に そして過度に安心と共感を求めていく。
ひとはその弱さから 自己感情に溺れ盲目的になり 自由に発言できる場を選び そのフィールドにインターネットを見つける。
自己の置かれている構造について冷静になって見極められていないがゆえに SNS上で炎上したりフェイクニュースが世界を走る。
こんな現象の中の根底に、そんな火種が深層心理に燻っている。
考えねばならぬことは 現代社会、その精神について 客観的な構造分析の中にあって いかに自己の主体性を発揮するか 「世界内存在」なんてことをハイデガーはテーマにしました。
それには、自分自身の存在意義を明確に悟らねばならないと考えます。
「理解」という言葉が大切になります。
自己理解のキモになることを言いますと
意識的に、理性の光を差し込ませて感情を吟味することです。
大部分、身体レベルと感情とは密接に結びついていて無意識的です。
普段、この自己感情を、日常的に 自らの力で圧し折ることは至難の業です。
この「感情」の味わいを拡大させ、深めるには 楽しいことばかりではなく「苦痛」を受容しなければならないのは当然の理です。
ただ弱い人間であるがゆえに、出会す苦労や辛さに「意味ある」を求め
将来、そのことが それ以上の何かとして返って来ることを期待していこうとします。
しかし残念ながら 客観的に起こる不幸や苦痛が 総合的に「吉」につながる保証はない。
それでも 「意識」的に自らの道理をもって 意識の地平を広げ、その中心に自分を据えていく主体性をもつこと。
そこに生きることの意義 「使命」を感じることができたら、理性と幸運は一致する。
そんな風に希望を見出そうと、努力すること。
このことが無意識的作用にとどまらず 人生を意識的に生きることになります。
人生の新たな意味の発見です。
ぜひ、皆様に 通常の思考回路では簡単に答えが出ない 「運命」というまるで生き物ようなその在り方に接近し
意識的に人生の物語を作る主人公として 主体性を発揮していただければなあと思っています。
「使命」を感じたい、そんなひとを大歓迎します。
皆様を教室でお待ちしております。
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