大概、断易の研究者や学ばれる方の中で、つまずきの基(もと)になる問題をここに挙げておきます。
得卦し、その示されているものを五行易のルールそのままで理解しようとすると、回頭生や回頭剋、これに合わせて冲や合が入り混じり「吉作用」と「凶作用」とされるものが得卦の中に混在し、いわばそのままみると吉凶錯綜しているため、どこからどう手をつけてどう読んでいくべきなのか、さらにその上に六親五類の意味をどのように捉えるかが分からなくなるという、二重の問題を抱え、判断ができなくなるという事態に通常、普通に陥ります。
そこで二つの極端な態度が出てきます。
・「断易」は当たるというけれど、当てにならないものだ。
・これを理解し解釈せよと示されたところで、自分には読みきれないので、直感で答えを出すか、さもなくばわかるところだけを伝えれば良い。
この二つの態度には、共通のものが根底に潜んでいます。
ここにある根底の共通の姿勢とは、『独善的である』ということ。
つまり、ひとりよがりな生き方をしていることを示しています。
これでは、うまくいきません。いつまで経っても、本物の断易者にはなれないのです。
僕は、別に周易で、正統な大岳易へ入門し、そこで師匠から予言としての「易」に立ち向かう姿勢とは何かを、厳しく鍛えられました。
そこから得たものは、周易の言葉とは、重みがあり、そう簡単に揺るがせにしてはならないもの、自分の感覚や考えを肯定するより先に、得卦を天の言葉として、まず受け入れて取り扱わねばならないということでした。
断易とは異なる周易では、基本的に同じことを何度も占ってはならない原則があります。
一発勝負で与えられたことを変えることはできない、受けて立つ以外にはない態度が求められます。
「覚悟」が必要なのです。それが運命に向き合うことなのです。
そこから断易にても、鬼神を尊重し絶対視し、自らはその対象に立つ位置から事態を受け入れることから全ては始まるという姿勢を貫き、解釈できないのは、自分が未熟でありその力量不足を自重し反省しなければならないというところへと立ち返る努力をし続けました。
こうした周易の姿勢から、断易のあり方に厳しい姿勢で臨むことで、見えない世界との掛け合い稽古で訓練されました。
断易の「得卦」とは、たとえ「再占」が許されたとしても、周易と基本姿勢は同じものであり、与えられ示された内容は、揺るがすことのできない現実として捉えることから、深い洞察と極意を学び、易神は私の意識を啓かれたものへとトランスフォームしてくださったのです。
つまづきの「基」。これを基礎の「基」という文字を使っています。
実は、この判断の迷いを生じるものが極意につながっていきます。
この極意とは一貫性のある「理論的視座」によりしっかりと根拠づけられ、解き明かされるものです。
どういう意味か。大事な点を申し上げましょう。
それは問いを立てることの意義と背景を得卦に流し込み
その文脈に従って得卦を構造的に設定することがまず第一。
次に、そこから傷のある部分をどのような作法でとりあつかうべきか。
この検討に尽きます。
こうした占いが発生(=問いを立てたということ)した背景をふまえて、
鬼神の意義を尊重する(=占った情景を捉え直す)作業です。
教室ではこれを「鬼神との対話」と表現しています。
ここnoteにてこれから有料化のニュースレターなどを作成し、
今後、随時、吉なのか凶なのかわからない、つまずきの基となる迷いが生じる占例を徐々にUPしてみようかなと考えてます。
ご意見をお待ちしております。ご要望があればお気軽に。
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