総裁選に勝った石破氏は首班指名を受ける前に、
解散総選挙の日程を表明した。

「前言撤回」もさることながら、この異例とも言える表明に戸惑いと驚きが走った。

このありさまについての言及は、多方面からの揶揄が飛んでいることは周知の通りである。このことについてのコメントは差し控える。

しかし、それにしても今回の一連の政治的な流れを見て思う。
「日本の政治」がこれで良いのか?

この記事は、どう考えても納得できない部分について考察するというのが本旨である。

自民党における総裁選の行方の流れを現象学的に見ても

議員それぞれの政治信条や見識から生まれる流れが渦となってはいるのだろうが、それがひとり歩きすると党内力学の作用を生み出し、人物像、その信念などより、各人それぞれのの権能を最大化するという駆け引きが生まれ、その時流から神輿に乗ったものが勝つ。

今回の自民党総裁選もまさにその延長線上の必然の結果であり、本質的には、見せかけの総意を形成することで生まれる権力への闘争、その力学の上に成り立っているものである。

実は、よくよく考えると、歴史的に見ても政党政治とは、多くを期待しても結局こうした動きにならざるを得ない。

例えば、具体的に見ても、
党員ではない大半の無党派層は、蚊帳の外に置かれてしまう。
そもそも一般市民は埒外なのだ。

政治を主導するにあたって政党政治というシステムにより、当たり前のように規定される路線というものがある。その根幹にはそもそも「議会制民主主義」という制度に深く根を張っているものがあるからだ。

この功罪をふまえ、対比して陳述する。
言うまでもなく、こうした合意を形成する民主主義のルール、いくら国民主権とか個人の時代といえども、現時点で近代国家は直接民主制ではなく間接民主制として体制を整えるしかない。

その中で大きく分けて、「大統領制」と「議院内閣制」の二つがある。

この二つのうち、より直接的に民主主義を反映できる制度であるのは、政党の影響の有無のみならずその個人的資質なども問われ、選挙人であるすべての国民が投票しリーダーをより直接的に決定する大統領選である方に軍配を上げざるを得ない。

しかし、日本の国民性に合う制度として、日本国は議院内閣制を選択した。
横の顔色を伺い、全体で合議するという形で責任の所在をぼかす制度。
大戦で大きな痛手を受けた日本は、ファシズムなどの独裁制を避け、
強烈な指導力と権限を担う「大統領」という制度は国民性に馴染まなかった。

こうした歴史的背景もあってか、さらに「55年体制」という流れを受けて、アメリカの保護の下、政権の安定が求められ現在の自民党があるという認識は、基本的に間違っていないだろう。

しかし、世界はグローバリズムへと突入していく。
こうした中で昨今、アメリカ中心の世界像が揺らぎ、独自の分裂割拠の地域紛争が絶えず起きる。グローバリズムが進めば進むほど、国家としてのアイデンティティーの意識が高まり、民族主義的な保守層がどの国も台頭している。

こうした中で、日本にも強い国家的リーダーを求める声が水面下で大きくなっている。にもかかわらず、戦後行政改革という狼煙が上がっても、本質的なところで政治改革につながっていない。

そこで、この時代だからこそ、自民党の党利党略を越えた国民意識に立つ強いリーダーを選出するには、無党派層をも含めた国民的な選挙に基づく「大統領」が出現すべきではないか、と思う。

政権与党の首が、そのまま首相になる。

総裁選とは、そもそもの与党自民党の身内の中での選挙。
さらに代議制として選出された永田町の議員の間での駆け引きで中心人物が決定される。
こんな内向きの権力闘争が生まれる土壌とは、「組織」がという力が独り歩きするから。結果、国民の信頼を裏切ることにつながる。

個人が集まり、団体を形成する。組織が生まれる。必然的にその権力をめぐり駆け引きが生まれ、そこから別の次元で悪が蔓延る。これが団体や組織のもつ避けられない運命と言って良い。

そこで、日本国民に問う。
直接民主制とは言わないまでも、せめて国家の中心リーダーを全国的な全員参加型の国民投票で決められる制度へと切り替えるべきではないのか。

現況、こうした議院内閣制のもとで党という組織が形成され、その中でいかに権力を握れるかという、間に挟まった団体が生まれることで、二重の手続きにより直接的な国民の手から離れ、問題が複雑化し歪みが生まれている。

こうした制度そのものが民意を反映しにくくさせる元凶にある。

国民が政治に対して参加する意識を高めて、国のリーダーを国民が直接選出する制度を確立するべきではないのか。

さて、10月27日、この総選挙の行方、如何?と題し周易で占った。

得卦は『雷水解六三』である。

総合的に見て、自民党の思惑は大きく外れることになる。

政権交代も現実味を帯びてきた。

「癒し」という言葉があたかも絶対性を含有し

現代社会において蔓延っているなぁと感じてます。

一度この癒しの作用を求め始めれば、 肉体的なものから、結局、 究極の精神的な安定までを欲することになります。

真面目な人であれば その支柱となるもの、

自分の根底を支えるひとつの原点を定めたく

いかにしてそれを定めればいいのかと

思考していく癖をもっているでしょう。

ひとはよるべきものをもち、頼りたい思いをもつ弱さがあります。

人類歴史は依存と自立のせめぎ合いの中で 「客観性」と「主体性」という認識を拡張し

そこから科学についての信頼が生まれ

さらに「合理性」と「個人主義」という大きな潮流の中で 人類は歴史を「進歩」と定義づけて進んできました。

こうした中で、現代哲学、および現代思想は 現象学、実存主義、構造主義、ポスト構造主義 はたまた分析哲学、倫理学など

それらは西洋精神文明の行き過ぎた危機を自覚し

近代における進歩主義的歴史観についての自己批判を繰り広げていると言って良いものがあると思います。

もっぱらSDGsにおける「多様性」とは、そんな流れの中での 一種妥協の産物のような意味が含まれているような気もしています。

「人間の弱さ」をいかに克服し、「共存」が可能か。

こうした背景から「コミュニケーション」全盛の機運がもたらされた

もっと具体的に言えば、インターネットこそが、深いレベルでの集合的な無意識が顕れる足がかりとしての舞台となった

もし存在論的な意味として、この現代の潮流を取り扱うことを考えるなら、たとえばハイデガー的な視点からすると源流にあるものに「不安と退屈」を見出しその「根本気分」の反映と位置づけられそうな感じもします。

さてどこまでニーチェ流のニヒリズムと合致しているかは別として

現代を「ニヒリズムの到来」とひとことで表現することもあながちまちがいではなさそうです。

本来、ニーチェ思想のニヒリズムの自覚という肯定的な側面に「主体性」が挙げられます。

このニヒリズムを自覚化してこそ、本当の主体性が顕れるという逆説的な捉え方です。

つまり、本物の主体性とは、無謀に自己を主張するということではない。

自分についての謙虚な自覚がまず、あります。

ひとは不安や退屈という虚の状態から回復させ ともすれば安易に そして過度に安心と共感を求めていく。

ひとはその弱さから 自己感情に溺れ盲目的になり 自由に発言できる場を選び そのフィールドにインターネットを見つける。

自己の置かれている構造について冷静になって見極められていないがゆえに SNS上で炎上したりフェイクニュースが世界を走る。

こんな現象の中の根底に、そんな火種が深層心理に燻っている。

考えねばならぬことは 現代社会、その精神について 客観的な構造分析の中にあって いかに自己の主体性を発揮するか 「世界内存在」なんてことをハイデガーはテーマにしました。

それには、自分自身の存在意義を明確に悟らねばならないと考えます。

「理解」という言葉が大切になります。

自己理解のキモになることを言いますと

意識的に、理性の光を差し込ませて感情を吟味することです。

大部分、身体レベルと感情とは密接に結びついていて無意識的です。

普段、この自己感情を、日常的に 自らの力で圧し折ることは至難の業です。

この「感情」の味わいを拡大させ、深めるには 楽しいことばかりではなく「苦痛」を受容しなければならないのは当然の理です。

ただ弱い人間であるがゆえに、出会す苦労や辛さに「意味ある」を求め

将来、そのことが それ以上の何かとして返って来ることを期待していこうとします。

しかし残念ながら 客観的に起こる不幸や苦痛が 総合的に「吉」につながる保証はない。

それでも 「意識」的に自らの道理をもって 意識の地平を広げ、その中心に自分を据えていく主体性をもつこと。

そこに生きることの意義 「使命」を感じることができたら、理性と幸運は一致する。

そんな風に希望を見出そうと、努力すること。

このことが無意識的作用にとどまらず 人生を意識的に生きることになります。

人生の新たな意味の発見です。

ぜひ、皆様に 通常の思考回路では簡単に答えが出ない 「運命」というまるで生き物ようなその在り方に接近し

意識的に人生の物語を作る主人公として 主体性を発揮していただければなあと思っています。

「使命」を感じたい、そんなひとを大歓迎します。

皆様を教室でお待ちしております。

https://note.com/pentagram/n/nc5f13673fed1

みなさんは自分のもっている現状を基準に置き良い悪いを判断していると思います。

この判断を作っている意識構造とは、どのようなものか?

あえて問い直してみるということが

無意識界への扉を開くことになります。

自分を「問う」という行為を行えるのは、人間だけだと思います。

そのとき、自分の成り立ちや心の動き、そして生き方をという目的性をターゲットにする。

その際、自分は他人と比較してどのように特徴づけられているのか。

こうした違いを取り扱う「視点」を保つための規準となる定着点として、「陰陽五行」というエネルギーを成立せしめているシステムにその根源を置くのが干支術であり、そこからそのエネルギーメカニズムを体系的に処理する方法が推命学および断易になります。

現実に当てはめてみると、あまりに整合性があることに驚嘆します。

こうした意識下の「無意識的下部構造」に光を当てることで

『どのような変容(トランスフォーメーション)を期待できるか』

という意識が生まれ、

運命と共に、自覚的に歩むことができるようになります。

無意識的な下部構造のメカニズムが、「運命」を形成します。

そこに光を照射することで意識の変容が生まれてきます。

普段、そのままでは意識に上ってこない盲点である無意識の世界のメカニズムを暴くことが光を当てるということであり

自らを問い直すことからすべては始まります。

肯定すべき内容、克服すべき内容が

はっきりとあからさまになることから

自らの意識野が拡張して

新たにふさわしい行動を現実にいかにして起こしていくか

ぜひ運命と共に歩む喜びをつかんでください。

お久しぶりになります。

岸田首相が任期一杯で退陣すると表明しました。

これまでほぼ3年の間、成し遂げた実績として

・経済政策

・政治と金の問題

・社会問題

・国際問題に対する対策

などのテーマを挙げて自己評価しました。

解体された旧派閥のバランスの中で 耳を傾けることを主眼に置き

微妙なバランスシートの中で政権与党としての舵取りをして来られました。

多くの難題が降りかかり

その中で自分の正義も盛り込みながら 政権運営をしてきたことでしょう。

しかし、

末期においてはさまざまな福利厚生の施策を打ち出しながらも

一向に支持率は上昇せず低迷したまま退陣の決断をされました。

この事態を受けて周易にて得卦しました。

*「巽為風上九」

易経の内容のもつ、その幾つか重要な主張についてここに列挙します。

・まるで風のように、その風向きをキャッチしながらくるくる振り回されるばかりであった。

・下手に出て、相手の懐に入るつもりが裏目に出て自分らしさを失う羽目になり、独自性を失った。

せっかくの退陣決断も、自らの政策に、もはや打つ手がなくなってしまってからでは、わずかな哀れみしか残らない。

辛いものです。

世代的には戦後の高度成長期の競争社会の中でしぶとく這い上がってきた人だと思います。

時代認識という意味で、その位置づけから考えてみると、

ちょうど世代交代への節目として橋渡しをするために、

コロナ禍による安倍政権後の混乱収集として菅政権〜岸田政権という流れが起こった中で、持ち堪えるには適任であったというようにも見えます。

しかし、日本国民を引き上げる柱としての信念を前面に打ち出し、

そこから未来を切り開くリーダーという意味においては、

なんともおぼつかない物足りない、

頼りなさが漂うものとなりました。

何度か節目節目で、自ら自身の決断であると表明しながら、信頼を回復することなく、

強い支持を得られないまま、強いリーダーシップを発揮したとは言い難い政権運営となりました。

この時代、世間を敵に回すくらいの明確な対抗軸で、

その強い信念を打ち出すリーダーが必要なのだと思います。

今年は、「甲」の辰年です。

どなたか強いリーダー、つまり時代の方向性を担うリーダーが現れる必要がある年とお伝えしておりました。

しかし、現在までの期間、自然災害などのゆさぶりなども相まって、若干、燻っているような中にあり、米国や日本において、さらに他国の中心人物もそのまま運営を維持できない、足元から崩されていくような中で、後の人物に自らの意思を託すという事態となりました。

今年も残すところ、あと「3分の1」強です。

そこにいかなる信念があるのか 相対的な状況判断では揺れ動くばかりであります。

幸福の原理以上に、誠実さの原理を打ち立てること。

誠実さの向こうにある、その世界を打ち出すこと。

絶対的な信念を先立てて、敵をも恐れず、人の心を変えていく そんなリーダーが出現することを祈るばかりです。

空亡、または天冲殺、そして大殺界について考えてみたいと思います。


天冲殺を他に「天中殺」と書いたりあるいは「天誅殺」なんて読んで 「天が味方してくれない」などの言い方されていること

ざっくり言ってこんな調子だと存じます。

そもそもこうした判断の元となるのは 「卜筮正宗」の最初に書かれている陰陽五行の原理についての部分から
引用されているものであると考えます。

占いの書物であり断易書である「卜筮正宗」には
原理となっている"陰陽五行"と天干及び地支についての伝統的な解説が載っておりますので占いの原典として重宝されるのは間違いありません。

この書物から いろいろと部分的に持ち出されて それぞれ独自の価値判断に基づく さまざまな処理をした ひとつの資料として
面白おかしく展開し 「○○占い」というような形で
独自の見解を売っています。 空亡を「天冲殺」と言い換えて 天の味方しない「凶」の運勢、または時期 と決定している東洋占いがほとんどです。

他の占術や運命家のやってることは別にしておきたいのですが
こんな子供のお遊びみたいなおママごとをしているから いつまで経っても東洋占術は相手にされない。 本来、干支術である陰陽五行の原典である卜筮正宗に書かれている「空亡」と他の占術の空亡または「天冲殺」及び「大殺界」とは全く別物であり、 もし、正統な陰陽五行書を正しく「卜筮正宗」に求めるとするならば 「空亡」を凶と見立て
それに対する対処の仕方について説かれている運命家全てが 間違っています。

原書である卜筮正宗には
「空亡」については凶と書かれておりません。

陰陽五行論に基づいて原理的にいうならば、空亡とは 「その占う目的には直接的に関わってこないもの」 という消極的意味がまず最初の基本中の基本になります。

さて、それではなぜ 占いたいその目的に直接影響を及ぼさないものが
その占いの土俵に上がってこないことをなぜわざわざ示すのか? この問いを立てること ここに占ったテーマに対しての空亡の極意があります。

つまり、未だ現れてこないものを暗示しているその意味を掘り下げる必要が出てきます。

・タイミング(時期)が問題なのか


・資質が問題なのか


・隠された別の問題を内容しているのか など、

テーマに沿って
これらいくつかの問題点について
できる限り得卦(=断易で示された易卦)の文脈全体から推理する必要が出てきます。

もし、わからなかったら断易は再占可能ですので
別の角度から問いを立てて新たに易神に質問しても良い というルールをもっています。

従いまして 問いが発せられた質問者の思いの盲点なども含めて
その文脈をつかむことが極意であり 頭から空亡の意味を当てはめることはできないのです。

ましてや、空亡を最初から凶であるとは決めてかかってはなりません。

判断者である占い師は、その文脈、得卦の流れから判断できる力を養わなければなりません。これが僕の教室で口を酸っぱくして言っている「卦情に通じる」ことに他なりません。

卦情に通じるとは、「鬼神とコミュニケーションができる」ことを意味します。

占いの原書である卜筮正宗に基づく正しい陰陽五行論に沿って 正しい知識がこの世界に流布することを 切に望んでいます。

https://note.com/pentagram/n/n133c8ea83162

占いの極意を申し上げたい、と存じます。
占いは未来を扱います。未来があることを前提とします。

人間には、存在している背景に様々な限界があり、「自由」であるとは言いつつも、たしかに何もかも思い通りになるわけではありません。

こうした心理的な背景が心の影に強く反映し、「運命」という概念を狭め、占って得た結果の未来について、まだ行動していないにも関わらず、すでに決定している前提に立ち、未来を先取りしたような形で、先回りして現在の行動を決定してしまうというミスを犯しがちです。占いの当たる当たらないの議論に、この問題が絡んでいたりします。

まだ、行動していない未来の結果を、今、先取りすることは不可能である現実に生きていることを絶対に蔑ろにしてはなりません。

行動してない未来の結果を、現時点で当たり前の前提にしてしまい、いわばすでに決定していることとして、それを前提に置いて今、生きること自体が間違いになります。

では、なぜ「占う」のか。

当たり前のことなのですが、占った未来とはすでに決定されているものではなく、将来の「展望」です。

そこに自らの「責任」、自由意志に基づく行動によって、如何様にでも変化していくもの、これが「未来」です。

占う行為とは、だからこそ、未来により良い変化をもたらすためにある。

現時点であらかじめ限界がどの程度あるのか、冷静に分析し、その上で可能性を追求し将来の展望のために選択肢を広げることを目的に置く。

最も大切なことは現状分析であり、そのための手法なのです。

だからこそ、「自分を知る」ことにつながります。
しっかりした自覚を確立し、人生の満足度を高めるためのもの

それが「運命学」のフィールドです。

心は絶えず、朝から晩まで「思考」を働かせているのですが、思考は基本となる感情作用の傾向に合わせて記憶をたどり、時に感情を検証しながら、イメージを修正したりして認識を成立させ判断を決定しているものです。

こうした意識作用は、記憶をたどりながら感情に色づけられた「心象」を浮かび上がらせ明瞭に意義づけしたり、それぞれの関係性を確認し、見極め、自分とつなぎ、意味を再構築して、今の自分にとっての世界像を構成します。そのようにして生まれる感情を味わいつつ、未来に向けて何かしらの働きかけをしたり切り離す決断を下します。

ここで一旦、冷静に整理するべきことがあります。
その対象となっているものは「心理表象」である、ということです。

極端な具体例を挙げます。

太陽が東から昇り、西に沈むのは地球が自転しているせいであり、太陽が動いている訳ではないというのが科学的知識であり、客観的事実です。しかし、我々の心が捉えるのは、太陽が昇り、沈んでいくという心が捉える主観的心像であり、これが「心の中でのありかた」になります。

つまり「事実」とは心に映る認識作用を度外視した客観的現象である。
しかし我々は心が捉える主観的現象を「経験」化している世界に生き、心理表象という認識作用の上に「生きている」ということをふまえることがとても大切になります。

心にとっては「有って無きが如し」ということがあるし、「無きものにしているが実は有る」という可能性が当然あるわけです。

僕が相談者に「質問」をする、その意義はここにあります。

この質問作業、易の専門用語では「筮前の審事(ぜいぜんのしんじ)」と呼ぶ問診は、ご相談者と事実関係を確認しながら、こうした心理表象と事実のずれを整理することであり、またそれが鑑定における技術のひとつとして、重要な役割をもちます。

相談者との対話の中で「問い」を投げかける場合、すでに易卦の示された成り行きの予想図やその方の星の見取り図から人格の作用の仕方を目安に、あらかじめその成り行きを想定し予測を立てながら、ずれがないか丁寧にあえて質問しており、その上でどのような言葉をレスポンスしてくれるのか、そこからご相談者の判断や価値観を正確に図り、慎重に感情の奥深い世界に切り込んで、より正しい方向を定めながら確認しつつ誘導していきます。

対面鑑定に限らず電話でも、その作業は同じなのですが

より対面鑑定の方が、ノンバーバルな言語・ボディランゲージを捉えることもでき、じっくりと時間を気にせずに自由な発想をもってやりとりが可能になることは残念ですが否定できません。

チャット鑑定については、端的な言葉になり感情表現を削ぎ落とすことになりやすく、
メール鑑定については、双方向性が半減します。

電話におかれましては、対面鑑定と比較し、そうしたリスクを織り込みつつも、限られた時間の中ではありますが言葉の呼吸を大切にして、貴重な対話の時間を通じご満足いただけるように、より一層気を配り注意を払いながら、一期一会で向き合う所存です。

みなさま、ようこそ。

ひとに関心がある、すべての方へ。
そしてコミュニケーションの一流の世界から魂の医者をめざして。
未来予測こそ、最高のインテリジェンス。


学校教育とは異なる、真理の扉。
自分に革命を起こし、最高の幸福を!


新春からの生徒さま募集してます。

・四柱推命学

・断易

・周易


こちらを三種の神器とし使いこなす技術を伝授いたします。


【断易】 は占った日のエネルギー状態から予想図である得卦と合わせて変化を知る判断方。
【周易】 は根本的な軸を探るためのいわば「天の声」に耳を傾ける方法。


鑑定実占法として端的に整理し比較します。


・断易は特に現象にフォーカスし、具体性のある成り行きを予測します。


・周易は的になる本質を分析し姿勢を正し、生き方の方針を検討します。


どちらもタネとなる素材は「易」がベースとなっておりますが、

産み落とされた畑が異なり、いわば異母兄弟のような関係で、

歴史的には「表舞台の周易」「裏社会での断易」という流れで伝承されてきたと言っていいものがあります。


現在、教室を執り行っております。

【耳寄り情報】
最初に、ご来場者さまにはざっくりと個別に占い、簡単な導入講座を行います。
料金は五千円です。


ぜひご興味を持ち、お運びください。

まずはじめに

ひとはふつう生きる上で、どこかに「確信の根拠」を求めていると存じます。
その確信の度合の多い少ない、または深い浅いという程度はおそらくあるでしょうが、客観的な基準であるものさしを持ち合わせておらず、その判断の妥当性を共有することができない宿命を持っていると思います。

科学のあり方やはたまた認識の様相について哲学的に考えることのないまま、「科学万能」神話をひとは鵜呑みにしてしまって、ここぞとばかり科学至上主義が大手を振ってまかり通ってしまっておりますが、世界に起こっている出来事や昨今の社会情勢不安にどこまで対抗できているかというと、人間の儚さや傲慢さがことあるごとに浮き彫りになり無情感に苛まされます。

そこでここでは、まず「無知の自覚」ということを問題にしたいと思います。


なぜ、人は「不安」に襲われ、不安と向き合わねばならないのか。


ハイデガーは不安を根本情態性=根本気分と称し、恐怖と区別します。恐怖は対象がはっきりとしていますが、不安とは「なんとなく不気味である」という情態のことであり、特定のものや人との関係を見出すことができない、世界の内で全体との意義が滑り落ちている世界の中に投げ込まれた自分、そうした自分の可能性について気遣っている状態であると定義しました。

不安になるとは、それ自体の存在性を問題としており、突き詰めると「死」に由来するものであるから、実に不安というものは「生きる」ということを根底から規定しているものであるとみなしたわけです。

この不安を顕在化する、バックボーンである「死」を自分の可能性として引き受けること、これが先駆的決意性=覚悟になる。

つまり、「わかり得ないもの(=死後の世界)」と直面している人間、生きているうちでは「答えの出ない世界」と境界している「生の事実」を踏まえることが無知の自覚であると言えるのではないでしょうか。

現科学では取り扱えない領域である「死」を前提にし、「不可能の可能性」を追求してみること、これが『占う』という行為に直結する。未来に挑む姿勢とは、その存在をかけて未だ見ぬ未来の可能性を追求しようとするチャレンジに他ならぬ。こうした覚悟を決めて、命をかけてチャレンジする精神を「占うという行為」に重ねて、知の限界を超えてみたいと思うのです。