空亡、または天冲殺、そして大殺界について考えてみたいと思います。


天冲殺を他に「天中殺」と書いたりあるいは「天誅殺」なんて読んで 「天が味方してくれない」などの言い方されていること

ざっくり言ってこんな調子だと存じます。

そもそもこうした判断の元となるのは 「卜筮正宗」の最初に書かれている陰陽五行の原理についての部分から
引用されているものであると考えます。

占いの書物であり断易書である「卜筮正宗」には
原理となっている"陰陽五行"と天干及び地支についての伝統的な解説が載っておりますので占いの原典として重宝されるのは間違いありません。

この書物から いろいろと部分的に持ち出されて それぞれ独自の価値判断に基づく さまざまな処理をした ひとつの資料として
面白おかしく展開し 「○○占い」というような形で
独自の見解を売っています。 空亡を「天冲殺」と言い換えて 天の味方しない「凶」の運勢、または時期 と決定している東洋占いがほとんどです。

他の占術や運命家のやってることは別にしておきたいのですが
こんな子供のお遊びみたいなおママごとをしているから いつまで経っても東洋占術は相手にされない。 本来、干支術である陰陽五行の原典である卜筮正宗に書かれている「空亡」と他の占術の空亡または「天冲殺」及び「大殺界」とは全く別物であり、 もし、正統な陰陽五行書を正しく「卜筮正宗」に求めるとするならば 「空亡」を凶と見立て
それに対する対処の仕方について説かれている運命家全てが 間違っています。

原書である卜筮正宗には
「空亡」については凶と書かれておりません。

陰陽五行論に基づいて原理的にいうならば、空亡とは 「その占う目的には直接的に関わってこないもの」 という消極的意味がまず最初の基本中の基本になります。

さて、それではなぜ 占いたいその目的に直接影響を及ぼさないものが
その占いの土俵に上がってこないことをなぜわざわざ示すのか? この問いを立てること ここに占ったテーマに対しての空亡の極意があります。

つまり、未だ現れてこないものを暗示しているその意味を掘り下げる必要が出てきます。

・タイミング(時期)が問題なのか


・資質が問題なのか


・隠された別の問題を内容しているのか など、

テーマに沿って
これらいくつかの問題点について
できる限り得卦(=断易で示された易卦)の文脈全体から推理する必要が出てきます。

もし、わからなかったら断易は再占可能ですので
別の角度から問いを立てて新たに易神に質問しても良い というルールをもっています。

従いまして 問いが発せられた質問者の思いの盲点なども含めて
その文脈をつかむことが極意であり 頭から空亡の意味を当てはめることはできないのです。

ましてや、空亡を最初から凶であるとは決めてかかってはなりません。

判断者である占い師は、その文脈、得卦の流れから判断できる力を養わなければなりません。これが僕の教室で口を酸っぱくして言っている「卦情に通じる」ことに他なりません。

卦情に通じるとは、「鬼神とコミュニケーションができる」ことを意味します。

占いの原書である卜筮正宗に基づく正しい陰陽五行論に沿って 正しい知識がこの世界に流布することを 切に望んでいます。

https://note.com/pentagram/n/n133c8ea83162

占いの極意を申し上げたい、と存じます。
占いは未来を扱います。未来があることを前提とします。

人間には、存在している背景に様々な限界があり、「自由」であるとは言いつつも、たしかに何もかも思い通りになるわけではありません。

こうした心理的な背景が心の影に強く反映し、「運命」という概念を狭め、占って得た結果の未来について、まだ行動していないにも関わらず、すでに決定している前提に立ち、未来を先取りしたような形で、先回りして現在の行動を決定してしまうというミスを犯しがちです。占いの当たる当たらないの議論に、この問題が絡んでいたりします。

まだ、行動していない未来の結果を、今、先取りすることは不可能である現実に生きていることを絶対に蔑ろにしてはなりません。

行動してない未来の結果を、現時点で当たり前の前提にしてしまい、いわばすでに決定していることとして、それを前提に置いて今、生きること自体が間違いになります。

では、なぜ「占う」のか。

当たり前のことなのですが、占った未来とはすでに決定されているものではなく、将来の「展望」です。

そこに自らの「責任」、自由意志に基づく行動によって、如何様にでも変化していくもの、これが「未来」です。

占う行為とは、だからこそ、未来により良い変化をもたらすためにある。

現時点であらかじめ限界がどの程度あるのか、冷静に分析し、その上で可能性を追求し将来の展望のために選択肢を広げることを目的に置く。

最も大切なことは現状分析であり、そのための手法なのです。

だからこそ、「自分を知る」ことにつながります。
しっかりした自覚を確立し、人生の満足度を高めるためのもの

それが「運命学」のフィールドです。

心は絶えず、朝から晩まで「思考」を働かせているのですが、思考は基本となる感情作用の傾向に合わせて記憶をたどり、時に感情を検証しながら、イメージを修正したりして認識を成立させ判断を決定しているものです。

こうした意識作用は、記憶をたどりながら感情に色づけられた「心象」を浮かび上がらせ明瞭に意義づけしたり、それぞれの関係性を確認し、見極め、自分とつなぎ、意味を再構築して、今の自分にとっての世界像を構成します。そのようにして生まれる感情を味わいつつ、未来に向けて何かしらの働きかけをしたり切り離す決断を下します。

ここで一旦、冷静に整理するべきことがあります。
その対象となっているものは「心理表象」である、ということです。

極端な具体例を挙げます。

太陽が東から昇り、西に沈むのは地球が自転しているせいであり、太陽が動いている訳ではないというのが科学的知識であり、客観的事実です。しかし、我々の心が捉えるのは、太陽が昇り、沈んでいくという心が捉える主観的心像であり、これが「心の中でのありかた」になります。

つまり「事実」とは心に映る認識作用を度外視した客観的現象である。
しかし我々は心が捉える主観的現象を「経験」化している世界に生き、心理表象という認識作用の上に「生きている」ということをふまえることがとても大切になります。

心にとっては「有って無きが如し」ということがあるし、「無きものにしているが実は有る」という可能性が当然あるわけです。

僕が相談者に「質問」をする、その意義はここにあります。

この質問作業、易の専門用語では「筮前の審事(ぜいぜんのしんじ)」と呼ぶ問診は、ご相談者と事実関係を確認しながら、こうした心理表象と事実のずれを整理することであり、またそれが鑑定における技術のひとつとして、重要な役割をもちます。

相談者との対話の中で「問い」を投げかける場合、すでに易卦の示された成り行きの予想図やその方の星の見取り図から人格の作用の仕方を目安に、あらかじめその成り行きを想定し予測を立てながら、ずれがないか丁寧にあえて質問しており、その上でどのような言葉をレスポンスしてくれるのか、そこからご相談者の判断や価値観を正確に図り、慎重に感情の奥深い世界に切り込んで、より正しい方向を定めながら確認しつつ誘導していきます。

対面鑑定に限らず電話でも、その作業は同じなのですが

より対面鑑定の方が、ノンバーバルな言語・ボディランゲージを捉えることもでき、じっくりと時間を気にせずに自由な発想をもってやりとりが可能になることは残念ですが否定できません。

チャット鑑定については、端的な言葉になり感情表現を削ぎ落とすことになりやすく、
メール鑑定については、双方向性が半減します。

電話におかれましては、対面鑑定と比較し、そうしたリスクを織り込みつつも、限られた時間の中ではありますが言葉の呼吸を大切にして、貴重な対話の時間を通じご満足いただけるように、より一層気を配り注意を払いながら、一期一会で向き合う所存です。

みなさま、ようこそ。

ひとに関心がある、すべての方へ。
そしてコミュニケーションの一流の世界から魂の医者をめざして。
未来予測こそ、最高のインテリジェンス。


学校教育とは異なる、真理の扉。
自分に革命を起こし、最高の幸福を!


新春からの生徒さま募集してます。

・四柱推命学

・断易

・周易


こちらを三種の神器とし使いこなす技術を伝授いたします。


【断易】 は占った日のエネルギー状態から予想図である得卦と合わせて変化を知る判断方。
【周易】 は根本的な軸を探るためのいわば「天の声」に耳を傾ける方法。


鑑定実占法として端的に整理し比較します。


・断易は特に現象にフォーカスし、具体性のある成り行きを予測します。


・周易は的になる本質を分析し姿勢を正し、生き方の方針を検討します。


どちらもタネとなる素材は「易」がベースとなっておりますが、

産み落とされた畑が異なり、いわば異母兄弟のような関係で、

歴史的には「表舞台の周易」「裏社会での断易」という流れで伝承されてきたと言っていいものがあります。


現在、教室を執り行っております。

【耳寄り情報】
最初に、ご来場者さまにはざっくりと個別に占い、簡単な導入講座を行います。
料金は五千円です。


ぜひご興味を持ち、お運びください。

まずはじめに

ひとはふつう生きる上で、どこかに「確信の根拠」を求めていると存じます。
その確信の度合の多い少ない、または深い浅いという程度はおそらくあるでしょうが、客観的な基準であるものさしを持ち合わせておらず、その判断の妥当性を共有することができない宿命を持っていると思います。

科学のあり方やはたまた認識の様相について哲学的に考えることのないまま、「科学万能」神話をひとは鵜呑みにしてしまって、ここぞとばかり科学至上主義が大手を振ってまかり通ってしまっておりますが、世界に起こっている出来事や昨今の社会情勢不安にどこまで対抗できているかというと、人間の儚さや傲慢さがことあるごとに浮き彫りになり無情感に苛まされます。

そこでここでは、まず「無知の自覚」ということを問題にしたいと思います。


なぜ、人は「不安」に襲われ、不安と向き合わねばならないのか。


ハイデガーは不安を根本情態性=根本気分と称し、恐怖と区別します。恐怖は対象がはっきりとしていますが、不安とは「なんとなく不気味である」という情態のことであり、特定のものや人との関係を見出すことができない、世界の内で全体との意義が滑り落ちている世界の中に投げ込まれた自分、そうした自分の可能性について気遣っている状態であると定義しました。

不安になるとは、それ自体の存在性を問題としており、突き詰めると「死」に由来するものであるから、実に不安というものは「生きる」ということを根底から規定しているものであるとみなしたわけです。

この不安を顕在化する、バックボーンである「死」を自分の可能性として引き受けること、これが先駆的決意性=覚悟になる。

つまり、「わかり得ないもの(=死後の世界)」と直面している人間、生きているうちでは「答えの出ない世界」と境界している「生の事実」を踏まえることが無知の自覚であると言えるのではないでしょうか。

現科学では取り扱えない領域である「死」を前提にし、「不可能の可能性」を追求してみること、これが『占う』という行為に直結する。未来に挑む姿勢とは、その存在をかけて未だ見ぬ未来の可能性を追求しようとするチャレンジに他ならぬ。こうした覚悟を決めて、命をかけてチャレンジする精神を「占うという行為」に重ねて、知の限界を超えてみたいと思うのです。