幸せのために〜 主体的に考える

こんにちは。

いつもありがとうございます。

みなさんは、ご自分が「我慢させられている」と感じることはありますか?

おそらくすべての人が似たようなことを感じたことがあると思います。

「我慢させられている」という気持ちになるのは、

たいてい「相手」が「自分」に何か「悪いこと」をしてそれに耐えているか、

「相手」が「嫌なこと」を「自分にするように強制させている」ときのように思います。

ここでの主体は誰でしょう? そう、相手です。

自分はそんなことはされたくないのに... そんなことはしたくないのに...

嫌々している、あるいはさせられている、というときに、なんとも嫌なうんざりした気持ちに

なりますよね。

嫌なことをさせられている相手を恨んだり、憎んだり、自分がひどい目にあって傷付いたように

感じることもあるでしょう。

このように感じている限り、自分は無力ですから、この状態から逃れることは出来ないし、

望みも失ってしまいます。

でも、同じ行動を、「自分の意志で」「選びとって」「自分の目的のために」しているとしたら

どうでしょう。

そこに疲れはあっても、被害的に感じる感情は湧かないのではないでしょうか。

そもそも、「どうしてもそこでは一方的に我慢させられている状況」だとしても、

自分がそこにいることを止める、そこから逃れるという選択肢はあるはずです。

「誰かのせいで」「させられている」という意識でいる限り、

不満や怒りは消えることはなく、無力感にさいなまれるだけです。

もしもあなたが「我慢させられている」状況になったとき、その状況と戦って

不本意なことをする相手に変わってくれるようお願いすることもできますし、

自分が不本意なことを拒否することもできます。

その選択もせずに、「我慢させられている」と感じたまま、無気力に行動するのは、

自分に毒を盛るようなものです。

もしどうしても、状況や相手を変えることができなくても、自分がその中でどうしたら

主体的に考えたり行動したりすることが出来るだろう? と考えることはできます。

要は相手がしている悪いことを考えるのではなく、自分が出来ることを考える、

ということです。

よく運命を呪ったり嘆いたりする方がいますが、この場合は、カミサマが悪者ということなのでしょう。

先日、水泳の池江選手が白血病の治療に入るということが報道されていましたが、彼女は

「カミサマは乗り越えられない試練は与えない」と言っていました。

彼女は運命を恨むことなどなく、果敢に自分が主体的に取り組む試練として病気をとらえていました。

私は彼女を非常に尊敬します。

一方、彼女を可哀想と思う方は、彼女が何か不運という被害にあっているようにとらえているのでしょう。

なにか問題がある状況の中でも、その中で自分が主体的に出来ることは何か? と問える人は、強いです。

口癖が、「〜させられた」「○○のせいで〜」という方は、注意が必要です。

その方は苦しみから抜けることはできないでしょう。

「私がこの状況に、自分の意志で、自分のために取り組む」という意識がある人には、困難はあっても、

問題は自分を成長させるための材料となっていくでしょう。

※尚、この記事はどんなことでも前向きに耐えなさい、という意味ではありません。

耐えなくてもいいこともたくさんあります。

個別のケースはどうぞご相談ください。